佐賀市史跡の紹介です。

此荷大明神(このにだいみょうじん)

瓦屋根の付いた木造の小さなお堂のような建物の中に、石造りの祠が安置されており、その建物の両脇を背の高い緑の生垣が囲むようにして立っている、此荷大明神(このにだいみょうじん)の写真

所在地 佐賀市川副町大字小々森

指定年月日 昭和60年2月25日

「此荷大明神(このにだいみょうじん)」と刻まれたこの祠には、戦国時代の勇将、龍造寺隆信にまつわる次のような言い伝えがあります。

筑後一木村(今の福岡県大川市一木)に身をおいていた隆信が天文22年(1553年)再起を期して、海路から犬井道の燈堂(あかしどう)に上陸した後鹿江の威徳寺に入り、軍備を整えたとき、この地に軍荷を置いたというものです。

かつては、この祠を囲んで楠や末の大木と雑木が生い茂った森があり、地元の人から「コーノイさん」と呼ばれ親しまれていました。

燈堂(あかしどう)

しめ縄が飾られた木造の鳥居の奥に、石造りの台座に鎮座する像へと続く赤い参道があり、周囲をフェンスや整えられた樹木が囲む、燈堂(あかしどう)の写真

所在地 佐賀市川副町大字犬井道

指定年月日 昭和60年2月25日

戦国時代の勇将、龍造寺隆信(1529~1584年)は、豊後の大友氏に内通した家臣に追われ、筑後柳川に近い一木村に身をひそめていました。天文22年(1533年)ひそかに水ヶ江城奪還を企てていた隆信は、鹿江兼明らの船に乗り、犬井道地先の燈堂(あかしどう)に上陸しました。当時この辺一体は葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯(燈=あかし)をつける堂があったことから、アカシドウと呼ばれています。

中にある龍造寺隆信の座像は、当初昭和28年4月南川副町制施行を記念して、地元の有志によって建立されたものですが、その後損傷が激しくなったため、平成10年9月に改築されたものです。

大野代官所跡

緑豊かな山々を背景に、石垣で区切られた段々畑や空き地が広がるのどかな里山の風景の中を、細いコンクリートの道が蛇行しながら奥へと続き、手前にはアスファルトの道路と白い軽自動車が停車している様子を捉えた、代官所跡の写真

大野代官所

所在地 富士町大字大野字一本松

指定年月日 平成14年6月24日

大野はかつて鍋島元茂を初代藩主(1617年)とする小城支藩に属していました。藩では1838年、領内管理のために山間地や飛び地に目代(もくだい)を置きました。1859年、藩士の富岡敬明が2代目山内目代に赴任した記録に「大野村ノ役所へ赴任」とあることから、19世紀中頃には代官所が存在していたと推定されます。富岡敬明は代官在任中の1862年、佐賀藩を脱藩により永蟄居になっていた江藤新平を代官所の北の金福寺に住まわせて寺子屋を開かせたと伝えられています。代官所は明治時代になってもしばらくは行政施設として使用されたと伝えられています。現在は江戸後期の石垣が残っています。

肥前国分寺跡

大きな木々に囲まれた未舗装の土の道が奥へと続き、その突き当たりに白い2階建ての住宅と黄色い建設機械のような車両が見える、木漏れ日が差し込む静かな住宅地の一角にある風景を捉えた、肥前国分寺跡講堂付近の写真

所在地 佐賀市大和町尼寺字真島958

指定年月日 平成2年5月30日

西門跡と外溝、西南隅の築地痕跡、東辺で築地と外溝、南辺では外溝が検出されており、その規模は方2町(1辺216メートル)と推定されています。

伽藍(がらん)は金堂(こんどう)の北側に講堂、南東方には塔を配置し、中門に取り付く回廊がこれらの建物を取り囲んでいたと推定され、塔跡は全国の国分寺のうち最大規模の版築基壇(はんちくきだん)が確認さており、七重塔が想定されています。また寺域の東側では瓦窯4基が発見されています。創建瓦は複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦の鴻臚館系軒先瓦で、鬼瓦も出土しています。

華蔵庵跡(けぞうあんあと)

薄暗い森の木立を背景に、地面から生える草木に埋もれるようにして並ぶ数体の古い石仏や石碑と、その中央に一本の白い卒塔婆が立てられている、静寂に包まれた歴史を感じさせる、華蔵庵跡(けぞうあんあと)の写真

所在地 佐賀市大和町松瀬2988-3

指定年月日 昭和62年7月25日

寛文年間、藩主鍋島光茂による円蔵院住職村了和尚の処刑に抗議して高伝寺11世の湛然(たんねん)和尚は筑前へ出国しようとしました。光茂は松瀬の地に土地、建物を寄進して国内に留まるように願いました。これが華蔵庵(けぞういん)で湛然和尚は晩年をこの庵で過ごしました。「葉隠」を執筆した山本常朝は、この華蔵庵で湛然和尚に教えを受けたと伝えられています。

導善寺(どうぜんじ)前方後円墳

手前に青々と茂る広い農地が広がり、その奥に数本の樹木が立つ小さな丘のような盛り土と、さらにその背景に民家や白い倉庫のような建物が並ぶ、曇り空の下ののどかな田園風景を捉えた導善寺(どうぜんじ)前方後円墳の写真

所在地 佐賀市大和町池上1339-1他

指定年月日 昭和58年10月17日

低位段丘上に立地する古墳で全長60メートル、一段の前方部を西側にとり、幅20メートル、長さ23メートル、高さ1メートルを測ります。後円部は2段で径38メートル、高さ4メートルを測ります。

築造年代は5世紀前半と推定されています。

乱斗山(らんとやま)古墳群

鬱蒼とした木々の葉が茂る森の中で、草木に覆われた土盛りの中に大きな石が組まれた、真っ暗な空洞がぽっかりと口を開けている様子を捉えた、歴史の神秘を感じさせる乱斗山古墳群の写真

所在地/佐賀市金立町大字金立(弘学館内)

指定年月日/平成5年3月31日

金立山南麓の古墳群は、その大半が果樹園造成時に壊されてしまっていますが、その中にあって良好な状態で残っているのがこの乱斗山(らんとやま)古墳群です。現在確認できる円墳は4基あります。これらの特徴としては、巨大な石材を使用して石室を構成した古墳であり、石室の巨大さに比べて封土は小さく、群集墳であることなどがあげられ、6世紀後半に造営されたものと推定されます。

高麗人の墓碑・逆修碑(ぎゃくしゅうひ)

青々と茂る草が生い茂る小さな盛り土の上に、大きな樹木が枝を広げて立っており、その根本に二基の古い石碑と案内板のような木柱が並んで設置されている、山とビニールハウスを背景にした歴史的な史跡の高麗人の墓碑・逆修碑の写真

所在地/佐賀市金立町大字金立

指定年月日/昭和60年12月12日

山本常朝口述の『葉隠聞書』によると、佐賀藩祖・鍋島直茂は豊臣秀吉の命による朝鮮出兵からの帰国のおり、焼物のじょうずな人を6,7人連れて帰り、金立山にて焼物を作らせたとあります。この墓碑は、16世紀末李氏朝鮮国の陶工団が、この地で陶磁を焼いていたことをうかがわせるとともに、「葉隠聞書」の内容を裏付ける史跡として、また肥前陶磁がどこから伝わったかを知る上でも貴重な墓碑です。

鍋島家発祥の地 御館(おたち)の森

澄み渡る青空の下、手前で淡いピンク色の小さな花々が揺れる草むらの奥に、古びた石灯籠の一部が顔を覗かせ、その背景には葉を落とした数本の大きな木々が立ち並ぶ、鍋島家発祥の地 御館の森の写真

所在地/佐賀市鍋島町大字鍋島

指定年月日/昭和56年3月1日

鍋島家発祥の地・御館(おたち)の森は、鍋島家の祖・長岡経秀が山城の国(現京都府)長岡から肥前に下り、居を構えていたところと伝えられています。その屋敷地がここにあったかどうかは明確に記された文献はありませんが、経秀の子経直の時代に本庄に移り住むまでは鍋島の地に住んでいたという伝承が地元に残っています。

初代肥前国忠吉(ただよし)の墓地

晴天の下、墓地に建つ複数の古い墓石の中で、手前に「初代肥前国忠吉之墓」という文字が深く刻まれた大きな石柱が垂直に立ち、その奥に歴史を感じさせる重厚な石造りの墓が鎮座している様子を捉えた、初代肥前国忠吉の墓地の写真

所在地/佐賀市伊勢町(真覚寺)

指定年月日/昭和48年2月11日

肥前刀の刀工の祖である初代肥前国忠吉(ただよし)の墓が、真宗本願寺派の真覚寺にあります。初代忠吉は元亀3年(1572年)、高木瀬村長瀬に生まれ、初め橋本新左衛門といいました。慶長元年(1596年)に上京して、埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り刀工としての技を磨き、慶長3年(1598年)に帰国して佐賀城下町(現長瀬町)に居を構え、佐賀藩おかかえの刀工となりました。元和10年(1624年)に再度上京して武蔵大掾を受領し、後に名を忠広と改めました。本県の刀剣史上その功績は大変大きいものがあります。

万部塔(まんぶとう)と六地蔵

抜けるような青空の下、同じような形をした古い石造りの墓石が、未舗装の地面に沿って横一列に整然と並んでおり、その背景には葉を落とした冬枯れの樹木や緑の常緑樹が混在して立ち並んでいる、万部塔と六地蔵の写真

所在地/佐賀市水ヶ江1丁目

指定年月日/昭和43年2月11日

  1. 万部塔(まんぶとう)
    佐賀藩代々の藩主が建立した、法華経一万部読誦の記念の石塔群です。法華経一万部を読誦して、国家安泰と万民安楽を祈願するならわしは、近世に入って各藩で行われていました。佐賀藩では、鍋島以前、龍造寺山城守家兼が、永正2年(1505年)3月、天亨和尚を導師として行なったのが最初です。
  2. 六地蔵
    万部島(まんぶじま)には龍造寺剛忠にゆかりがあると伝えられている六地蔵が2基あります。南側の六地蔵は高さ1.6メートル、支柱の中央に「天文弐暦11年28日」とあり、願主権大僧都弁仁と記され、大工○○郎と刻まれています。北側の六地蔵は、南側よりも全高が高く、台石から笠石まで2.5メートル、支柱の中央に「天文22年乙未霜月7日大周寿盛建○」と刻まれています。

金立神社上宮

細長い木々に挟まれた急勾配の石段のふもとに、しめ縄が飾られた赤錆びた古い鳥居が立ち、その階段の先には重厚な屋根を持つ拝殿と、さらにその背後に大きな岩や巨木がそびえ立つ、厳かな雰囲気の金立神社上宮の写真

所在地/佐賀市金立町大字金立

指定年月日/昭和48年2月11日

金立神社は、平安時代の貞観2年(860年)に従五位下を、元慶8年(884年)に従五位上を賜った由緒の古い神社です。祭神は保食神(うけもちのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)、秦の徐福、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。江戸時代には雨乞いに霊験のある神として、佐賀藩主をはじめ多くの人々に崇敬されていた神社です。史跡に指定された上宮は佐賀市北部の金立山山頂近くにあり、神殿・拝殿は県内でも珍しい石殿です。近くには巨岩や弁財天をまつる湧水池もあり、周辺の森林と合わせ神秘的雰囲気がただよっています。

龍造寺隆信誕生地

青空の下で満開の桜が咲き誇る枝が手前に広がり、その奥に低い石造りの柵で囲まれた丸みのある石碑が設置されており、手前には「道連寺住持誕生地」と刻まれた細長い石柱が直立している、春の穏やかな史跡「龍造寺隆信誕生地」の写真

所在地/佐賀市中の館町

指定年月日/昭和43年2月11日

戦国大名・龍造寺山城守隆信は、享禄2年(1529年)2月25日、水ヶ江城で生まれました。龍造寺家には村中(宗家)と水ヶ江の2系があり、隆信は天文17年(1548年)村中龍造寺家のあとを継いで宗家の当主なりました。当主となったのちの隆信は肥前、肥後、筑前、筑後、豊前ならびに壱岐、対馬を手中におさめ、『五州二島の大守』とまでいわれました。この誕生地には隆信の袍衣塚(えなつか)があります。

高伝寺墓所

手前に咲き誇る白やピンクの桜の枝越しに、石造りの立派な五輪塔や石灯籠が並ぶ歴史的な墓所が広がり、遠くには寺院の屋根が見える、春の柔らかな日差しに包まれた静かで厳かな、高伝寺墓所の写真

所在地/佐賀市本庄町大字本庄(高伝寺)

指定年月日/昭和42年2月11日

高伝寺は鍋島家の菩提寺で、山号は慧日山といい、曹洞宗の寺院です。佐賀藩藩祖・鍋島直茂の父清房が、天文21年(1552年)妙雲寺(神埼郡)住職玲岩を招き開山しました。境内の西側には約45アールの墓地があり、龍造寺家および佐賀藩主・鍋島家の歴代の墓や石燈籠などが整然と並んでいます。現在、高伝寺には創建当時の建物は残っていませんが、楼門や本堂などはさすがに入念な普請がなされ堂々とした風格を保っています。

鍋島直茂誕生地

陽光が差し込む明るい屋外で、手前に「鍋島直茂誕生地」と刻まれた白い石柱が立ち、その奥にこんもりとした丸い岩のような石碑と、小さな仏像のような石造物が緑豊かな樹木を背景に並んでいる、鍋島直茂誕生地の写真

所在地/佐賀市本庄町大字本庄

指定年月日/昭和42年2月11日

佐賀藩藩祖・鍋島直茂は、天文7年(1538年)清房の次男としてこの地、本庄館で生まれました。直茂は、戦国武将・龍造寺隆信のもとで、豊後の大友義鎮(宗麟:そうりん)の佐賀城攻略を阻止するなどの武功を重ね、天正12年(1584年)、龍造寺隆信が島原の戦いで戦死すると、龍造寺氏の領国の経営を豊臣秀吉から認定され、政権が龍造寺氏から鍋島氏に移されました。その後慶長12年(1607年)、家督を鍋島勝茂(佐賀藩初代藩主)に譲り、多布施に隠居。81歳でこの世を去りました。

葉隠発祥の地

満開の桜の花が枝いっぱいに咲き誇る春の風景の中で、背の高い常緑樹の生垣に囲まれるようにして、表面に文字が刻まれた自然石の大きな石碑が重厚な石の台座の上に直立している様子を捉えた、静かで厳かな雰囲気の漂う「葉隠発祥の地」の写真

所在地/佐賀市金立町大字金立

指定年月日/昭和42年2月11日

元禄13年(1700年)、佐賀藩2代藩主・鍋島光茂の祐筆(ゆうひつ)であった山本常朝は、光茂の死去のため、出家して黒土原にある朝陽軒(のちの宗寿庵)に隠棲しました。その10年後、同藩士・田代陣基が自己修養のために常朝のもとを訪れ、7年にわたり教えをこいました。その教訓を中心に筆録したのが「葉隠」で、この地を葉隠発祥の地として史跡指定しています。現在朝陽軒の建物は残っていませんが、光茂の夫人が亡夫追善のために法華経を自読した碑である「大乗妙典一千部」の石塔と、昭和10年に建立した「常朝先生垂訓碑」があります。

築地反射炉跡

屋外の緑豊かな敷地内で、手前に設置された強固な台座の上に古い鉄製の大砲が展示されており、その背景に二本の高い煙突を持つレンガ造りの重厚な反射炉跡がそびえ立つ、築地反射炉跡の写真

所在地/佐賀市長瀬町

指定年月日/昭和42年2月11日

長崎を守る特別任務があった佐賀藩は、江戸時代末期、諸外国の事情が判明するにつれ、これまでの兵備では守りきれないと思っていました。幕府にもしばしば防備増強を訴えたのですが、聞き入れてくれません。そこで、佐賀藩は独自に藩の費用で大砲を作ることにしました。そして嘉永3年(1850年)10月、西洋式反射炉等を築地につくり「大砲鋳造所」と呼びました。現在この反射炉跡は小学校の敷地や民家となっていて、その一画に反射炉の模型などが設置されています。

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