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有明佐賀空港(2014年12月10日)

更新:2017年03月 9日

有明佐賀空港

自衛隊が新しく導入する予定のオスプレイの配備先に「佐賀空港」が選ばれているが、何故なのかいまだにすっきりしない。

「佐賀が地元の理解が得られやすい」と、誰かの発言があったのではないかと県幹部と称される方が疑惑を持たれたこともあったが、前知事の怒りを受けて防衛省は否定した。

「オスプレイ受け入れ」には当然のごとく賛否両論あり、双方の意見が私の耳に届く。

こういう中で佐賀の世論が二つに分かれ、オスプレイ配備への賛成派、反対派が互いにいがみ合うことを私は最も恐れる。

2度の合併を経験し、市民の融和と一体化をモットーに進めてきた市政運営に水を差すことになるからだ。

これこそ佐賀市にとって大きな損失である。

正直言って、「そっと、しといてください。」と私は言いたい。

先ごろ私は川副町誌を手にした。

また、その町誌の編集員の一人であった故園田十四三氏が書かれた「幻の佐賀空港」を読む機会を得た。

園田氏は元川副町議であり、県議会議員としても活躍された方である。

なぜそんな古いものに私が目を通すのかといえば、川副の空港建設の背景を少しでも知りたかったからだ。

佐賀空港の計画が初めて明らかにされたのは昭和44年の正月であるが、この計画が発表されてから反対運動があり、昭和48年に白紙撤回された。

2回目の計画表明は昭和52年である。

特に反対運動が大きかったのが、この2回目の計画である。

反対運動は56年8月まで続き、最後は機動隊まで待機させる闘争になり白紙に戻った。

その後、佐賀空港は、昭和58年5月に、最初の提案からすれば3回目の提案を受けて協議・合意に達した、まさに「苦労の塊」の空港である。

前出の「幻の佐賀空港」は、2回目の白紙に戻ったところまでをまとめられたものなので、「幻」の文字を使われている。
もしも2回目の白紙に戻った時点で、建設計画が断念されていれば本の表題のごとく、幻の空港で終わったに違いない。

この2次にわたる交渉の経過を綴った記録を読んで、私は漁民の皆様の有明海に寄せる思いの大きさを知らされた。

この本のまとめの中に、

「約束は勿論、署名押印した誓約さえ、次々と破られては町民は何を頼りに生きるのか、政治不信は募るばかりである。」と書いてある。

私はこの本を読んで行政にとって約束を守ることがいかに大事であるのか、

行政にとって信頼関係がいかに大事であるのか再認識させられた。

このような状況の中でオスプレイの問題を考えてみると、

古川前知事は辞任前にオスプレイ配備の件で「防衛省から提案のあった計画は、民間機の運航には支障はないようだ」と表明されたが、私はその前に空港建設同意時に取り交わされている覚書の「自衛隊とは共用しない」という項目について、きちんと整理をしなければならないと考える。

覚書には、「自衛隊と共用しない。また…」と、確かに「また」以降があるが、この「また以降の文章」は前段の部分を補強するものと私は理解しており、決してこちらの方が主役に躍り出るものではないものと考える。

「自衛隊とは共用しない」ということは、4年半前に佐賀県議会の反対決議の中で「佐賀空港の軍事的利用ができないことは明らかである」というような言葉で示されたように、私も「佐賀空港は軍事的利用をしない」という意味に解している。

加えて、当時漁業者が最も心配していた「自衛隊の基地化」に対して、「自衛隊との共用はしない、させない、あり得ない」と言明をし続けてきた当時の事務担当者の証言もある。

新聞によるとその証言者は井本元知事や楢崎元県議である。

私はこれらの空港建設に至る経過を重くとらえ、当時の約束事は後世にも大事にされるべきことだと考える。

私はこのような思いのもとで、今回防衛相から要請のあったことに熟慮を重ねたが、まだ「受け入れ」に慎重な立場を取らざるを得ない。

沖縄の置かれている立場は十分理解できるが、だからと言って、それ以前に佐賀空港の建設にあたって関係者が交わした約束をここで反故にするというわけにはいかない。

それくらい重みのある覚書だったと私は考える。

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