~黒田官兵衛と佐賀城~ |
前回の「佐賀城だより」では、佐賀城の堀普請に黒田家が関わっていたことをご紹介しましたが、今回は佐賀城そのものの普請と黒田官兵衛の関係についてご紹介します。
『元茂公御年譜』には、「佐賀城の縄張りを黒田官兵衛が、福岡城の縄張りを直茂が行うこととなり、官兵衛は佐賀城の縄張りを八戸の辺りに置いたが、直茂の意に添うものではなかったので、自分で現在のところに縄張りをやり直した。」という話や「慶長14年(1609)に完成した佐賀城の天守は、官兵衛から直茂に豊前小倉城の天守の設計図が提供されたので、それに基づいて築かれた。」という話が記されています。
『元茂公御年譜』は佐賀城惣普請から200年近く経った18世紀末頃にまとめられたものであり、内容的にも「官兵衛が縄張りを行ったのは惣普請(慶長13~16年・1608-1611)で整備されるはずだった佐賀城の縄張りなのか?そうだとすれば、慶長9年(1604)に亡くなった官兵衛にそれが可能なのか?同様に、慶長15年(1610)に完成したとされる小倉城天守の設計図を官兵衛が入手することができたのか?」という疑問も残ることから、編纂(へんさん)時に何らかの錯誤(さくご)があったのかもしれません。
ただ、『葉隠聞書』にも「佐賀城惣普請が終わり、勝茂が本丸に入った慶長16年(1611)、黒田長政が突然佐賀を訪れた。」という記述があるように、当時の黒田・鍋島両家の関係は比較的良好だったと考えられ、『元茂公御年譜』の記述の真偽とは別に佐賀城の普請に際して黒田家との間に何らかの協力関係が築かれていたことは間違いないと思われます。
みなさんは、どうお考えになられるでしょうか。
【一口メモ】
黒田官兵衛の「官兵衛」は通称で、本名は「孝高(よしたか)」といいます。また、天正17年(1589)に家督を嫡男・長政に譲ってからは「如水軒(じょすいけん)」と号しています。
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佐嘉小城内絵図(公益財団法人鍋島報效会所蔵)に描かれた天守 |
寛永御城并小路町図(公益財団法人鍋島報效会所蔵)に描かれた天守 |
小倉城の天守(昭和34年に復興)
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