江戸時代、佐賀城下には主に六箇所の入口があり、木戸や番所を設けて通行人を監視していました。このなかの一つである牛嶋口は、佐賀城下を東西に延びる長崎街道の東入口にあたり、現在も城下町や宿場の入口を示す「構口(かまえくち)」の呼称が残っています。佐賀藩にとって交通・軍事の要衝地であるこの場所は、江戸時代の初め頃から整備が進められ、1785年(天明5年)に製作された『巨勢郷牛嶋村絵図』【公益財団法人鍋島報效会所蔵】には、川の両岸に台形状に張り出した土台に架かる橋、城下側に木戸と思われるもののほか、番所、柵、土塁、溝などで閉鎖的空間が描かれ、1812年(文化9年)佐賀城下を訪れた伊能忠敬は、「右に番所あり、構口門を出と直ちに牛島口橋、渡幅十一間、右欄干に繋、」と牛嶋口の様子を日記に記しています。当時の橋は、現在の構口橋と牛島橋の中間あたりに架かっていたと考えられていましたが、詳細な位置はわかっていませんでした。
文化年間(1810年)頃に製作された御城下絵図と現地形図の合成図
牛嶋口が描かれた『巨勢郷牛嶋村絵図』 現在の様子 (佐賀市東佐賀町)
【絵図 公益財団法人鍋島報效会所蔵】
平成28年度に実施した公園整備に伴う発掘調査で、江戸時代の石垣、溝、長崎街道の整地面を発見しました。石垣は絵図と合致する位置で発見されたことから、江戸時代に架かっていた橋の土台(城下側)であることがわかりました。
橋の土台は、川に張り出す形で造られています。石垣は北面6メートル、東面7メートル、南面約5メートルの3面に築かれ、高さは北と南面では7から8段分(高さ約2メートル程)を確認することができました。発見された石垣の構築年代は1800年前後と推定されますが、積まれた石の中には、古い時代に加工されたものも含まれていることから、この場所が整備された江戸時代の初め頃から幾度も修復が行われ、使える石は再利用していたと考えられます。石垣は全体的に丁寧なつくりで、湾曲に積むことで倒れにくくする「輪取(わどり)」や、隅角を鈍角に仕上げる「シノギ角(すみ)」などの技法を用いて築かれています。また、北面の石垣のなかには、佐賀城の石垣などにも見られる「刻印(こくいん)」が施された石も確認しました。このことから、この石垣の構築には、城などの石垣構築の伝統を継承した集団が係っていたと考えられます。さらに、橋の構造を知る手掛かりとして、橋桁を支える「枕土台(まくらどだい)」の石組を確認できたことで、架かっていた橋は「太鼓橋」だったと推察されます。
橋土台の石垣(東から)
北面石垣と刻印(北から)
調査区オルソ図
長崎街道の整地面は、砂と粘土を細かく互層につき固めて地盤を強化していることがわかりました。また、街道と南北方向に並走して発見した溝は、「絵図」に描かれている柵と土塁の間の溝と考えられるものです。この溝を境にして明らかな地業の違いがみられ、街道に当たる西側部分は強固に地盤を整地していることがわかりました。溝の東側は土塁部分にあたりますが、その痕跡は確認できず、後世に削平されたと考えられます。
砂と粘土を突き固めた街道の基盤 街道と土塁の間に掘られた溝の一部
発掘調査の成果として
1 当時架かっていた橋の位置が明らかになったことで、佐賀城下の要衝である口留番所「牛嶋口」の位置が特定できた。
2 石垣の造りなどは、この場所が佐賀城下の玄関口として、佐賀藩の強い意識がうかがわれるものである。
3 全国的にみても、城下の入口遺構がこれほど良好な状態で残っている類例はほとんどなく、橋と街道遺構の構造が一体的に解る数少ない遺跡である。
などがあげられます。明治時代以降、主要な道路に架かっていた橋の多くは、近代的なものに架け替えられ、古い時代の痕跡は失われてきました。しかし牛嶋口の場合は、場所をかえて新たな橋が架けられ、その後も大きな開発の手が加えられなかったことで遺構が残り、地域の歴史を物語る貴重な遺産として、現代に再び姿を現しました。
所在地:佐賀市東佐賀町
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