先人に想う ~明治維新150年に寄せて⑧ ~
さが水ものがたり館 館長 荒牧 軍治さん

更新:2017年12月25日

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市報さがでは、幕末維新期を中心に活躍した「佐賀市が輩出した偉人たち」にスポットをあて、 縁のあるみなさんにインタビューを行います。

今回は、佐賀大学名誉教授でさが水ものがたり館館長の荒牧軍治さんに、 「成富兵庫茂安の功績に見る佐賀の水の歴史」などについてお話を伺いました。

(聞き手 池田剛)

土木技術者としての成富兵庫茂安

錆色塗紺糸威仏二枚胴具足_公益財団法人鍋島報效会所蔵

(錆色塗紺糸威仏二枚胴具足(公財)鍋島報效会所蔵)

土木技術を学ぶ者にとって、成富兵庫茂安はとても重要な存在で、学生たちは土木史の中で必ず習います。

同じように歴史上の土木技術者登場するのが、武田信玄と加藤清正です。

中でも2つ年下の加藤清正とはとても親しい間柄でしたので、熊本に何度も足を運び、語り合い、教えを受けていたようです。

成富兵庫は、鍋島直茂・勝茂親子のもとで、武将として働きましたが、佐賀藩全体を見通した経営哲学を持っていた人だと思います。

成富兵庫の後半生は、戦国時代が終わって、与えられた領国を守り、その中で生き残ることを考えるようになった時代といえます。

さらに、地方は中央政府の徳川幕府から築城やまちづくりの手伝いなどのさまざまな形で財を搾り取られることが考えられました。

水のマネジメント

石井樋②

(象の鼻と天狗の鼻(石井樋))

成富兵庫は、「鍋島藩がこの先つぶれずにやっていくためには、暴れる水を治め、 必要な水を田畑に配る『水のマネジメントシステム』を構築し、国を豊かにすることが重要である」と勝茂公に提言し、 先頭に立って事業に乗り出します。

やってみると課題はいろいろとありました。筑後川は暴れ放題で、嘉瀬川、城原川は川筋さえ決まっていません。

平野は広いものの、葦原が茂る湿地と干潟が拡がっているだけ。干満差が日本一の有明海からは潮水が川を遡ってきます。

また山が浅いため、水があまり多くないことも課題でした。

暴れる水をなだめる

石井樋(3)

(大井手堰(石井樋))

久留米藩との国境を流れる筑後川に本格的な河川堤防千栗土居を築きます。

曲がりくねった川岸から少し引いて本土居を作り、堤防前の水田には輪中形式の内土居を構えます。

内土居と本土居の間に竹を植えて底を固め、本土居の裏側には杉を植えて、水防活動用の資材として準備しています。

同じ佐賀領内を流れる嘉瀬川や城原川では、治水と利水の両立を目指したソフトな治水システムを採用します。

まずは、扇状地から数本の川に分かれていた水を一本の川筋にまとめるため、 内土居を設けて平水時の少ない水を取水施設に導きます。

内土居と本土居との間を広く取り、竹を植え、洪水時の遊水地にしました。

竹林で砂を落とし、急傾斜を一気に下ってきた水を遊水地で歩かせる作戦です。

また、本土居には他より少し高さが低い部分、「野越」を設けます。 野越は石などで補強していますので、破堤することはありません。

川の水位は野越の高さ以上にはなりませんから、他の場所では堤防を越えることはありません。

加藤清正も白川・緑川で、暴れる水を遊水地や水田に溢れさせる手法を使っていることからも、 二人が相談していたことがうかがえます。

その時代ならではの発想

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今は、高い堤防を使って洪水を一気に海に運ぶ「高堤防方式」を採用しています。

昭和28年、佐賀で降り始めからの総雨量が600ミリという大雨が降り、嘉瀬川の堤防が切れて大きな被害が出ました。

現在の堤防は、この時の雨量を参考にし、必要な高さにさらに1メートル加えて作られています。

しかし、今後絶対に越えないという保障はありません。

成富兵庫は、想定外のことが起きた場合に、国の被害が最小限に抑えられる方法を考えていたのです。

もちろん、絶対的な権力を持ったお殿様がいた時代の話であって、現代に当てはまる方法ではありません。

我々も想定外の洪水に備えて堤防に野越を設けたいのですが、「ここに作らせてください」と提案する勇気はありません。

国を豊かにする

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成富兵庫は、水を作り、配る「水システム」の構築に力を注ぎます。

戦国時代に屋敷地の周りに無秩序に掘られた水路を整理し、広大な湿原から水を抜き、 さらに水を貯める網目状の堀(クリーク)を構築します。

山地に数多く作ったため池(ダム)と河川に設けた堰から水路で堀に水を引き、足踏み水車で水田に揚げて何度も使いました。

永池の堤(ため池)、嘉瀬川の石井樋と多布施川、城原川の三千石堰と横落水路、田手川の蛤水道などが治績として知られています。

江戸初期の経済の中心は米です。生産した米を高く売って、現金化する必要があります。

舟通しをよくするため、人工的に蛇行させた佐賀江川から筑後川を経て、 有明海から船で大阪の堂島まで運び、お金を稼ぐ方法もとりました。

佐賀藩は36万石と言われていますが、成富兵庫が構築した「水システム」と、たゆむことなく続けられた干拓事業によって、 200年経過した幕末の頃には、その2倍ぐらいになっていたのではないかと思います。

さが水ものがたり館

石井樋は、北山ダムと川上頭首工の構築で不要となり壊れたままになっていましたが、 「河川構造物としては不要でも歴史的には極めて重要だ」という声を受け、復元されました。

ここ400年ぐらい、佐賀では水不足による餓死者は出ていないと思いますが、 これが、何より彼の一番の功績ではないでしょうか。

私が館長を務めているさが水ものがたり館は、成富兵庫茂安のことをみんなが思い出し、 彼が言いたかったことを伝える場所だと思っています。

「水を治め、その上で上手に使っていく」ことを実践し、そのシステムを確立した成富兵庫茂安のことを、 私はこの場所(さが水ものがたり館)で微力ながら伝えていきたいと思います。

リンク

さが水ものがたり館

(公財)鍋島報效会 徴古館

※先人に想う~明治維新150年に寄せて~は、市報さが1日号で連載中。

(荒牧 軍治さん:市報さが1月1日号

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