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佐賀城だより第6号

更新:2013年04月26日

佐賀城鯱の門 承応佐賀城廻之絵図 御城分間絵図
佐賀城鯱の門 承応佐賀城廻之絵図 御城分間絵図

佐賀城の鯱

佐賀城本丸へ出入りする門は「鯱(しゃち)の門」と呼ばれていますが、これは門の屋根に飾られた一対の「鯱」に由来することはみなさんよくご存知のことと思います。

公益財団法人鍋島報效会(こうえきざいだんほうじんなべしまほうこうかい)には、この「鯱」がはっきりと描かれた絵図が2枚残されていて、それを見ると年代によって違う場所に「鯱」が飾られていることがわかります。

今回は、この2点の絵図を見てみたいと思います。

まず一つ目は、「承応佐賀城廻之絵図(じょうおうさがじょうまわりのえず)」です。この絵図では、「本丸」の門に「鯱」が飾られています。この絵図は、鍋島直茂・勝茂父子が慶長13年~16年(1608~1611)に行った「佐賀城惣普請(さがじょうそうぶしん)」からまだ40年程しか経っていない承応(じょうおう)3年(1654)に描かれたものです。当時の「本丸」は、築城以来藩主が政務を行い藩政の中心となっているいわば象徴的な場所です。したがって、そこの門に「鯱」が飾られたのではないかと思われます。

二つ目は、「御城分間絵図(おしろぶんげんえず)」です。この絵図では、「二ノ丸」の門に大きな「鯱」が飾られています。佐賀城は、享保(きょうほう)11年(1726)の火災で本丸・二ノ丸・三ノ丸・天守をほぼ全焼しています。その2年後の享保(きょうほう)13年(1728)に「二ノ丸」は再建されていますが、「本丸」は天保(てんぽう)9年(1838)まで再建されず、その間の約110年は「二ノ丸」が藩政の中心となっています。この絵図が描かれた寛政(かんせい)8年(1796)は、ちょうどこの時期と重なっており、このことから「二ノ丸」の門に「鯱」を飾ることになったものと考えられます。

このように、「鯱」はその時々で藩政の中心となった施設がある場所に飾られていたようです。

これからも、引き続き天守台周辺での発掘調査や佐賀藩に残された古文書・絵図等の調査を行っていき、少しずつかもしれませんが「佐賀城の謎」を解き明かしていきたいと思います。

【一口メモ】

現在の「鯱の門」に飾られている「鯱」は、昭和36~38年に行われた鯱の門の解体修理の時に調査が行われ、「冶工谷口清左衛門(やこうたにぐちせいざえもん)」の銘(めい)が刻まれていることがわかっています。 この谷口家は、代々藩の御用を務める鋳物師(いもじ)の一門で、英彦山の銅鳥居を製作しているほか、記録によると寛永19年(1642)頃に天守の鯱、享保6年(1721)に二ノ丸の門の鯱も製作しているようです。

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