佐賀城本丸の石垣
佐賀城は、龍造寺氏の居城であった村中城を、鍋島直茂・勝茂父子が行った佐賀城惣普請(さがじょうそうぶしん)(慶長13~16年【1608~1611】)によって拡張・整備された城だということはみなさんよくご存知のことと思います。
今回は、財団法人鍋島報效会(ざいだんほうじんなべしまほうこうかい)が所蔵するいくつかの絵図を比較しながら、本丸・二ノ丸周辺の石垣や土塁(どるい)が時代とともに少しずつ形を変えている様子を見てみたいと思います。
まず一つ目は、築城当時の佐賀城の姿が描かれた「佐嘉小城内絵図(さがしょうじょうないえず)」(慶長年間 1596~1614)です。この絵図では、本丸の西面および天守(てんしゅ)周りを含めた北面には石垣が築かれ、本丸東面から南面には土塁が築かれたことが分かります。また、二ノ丸の西面および北面は土塁が築かれるものの、東面および南面には築かれず、そのまま土手になっているようです。
二つ目の絵図は、「承応佐賀城廻之絵図(じょうおうさがじょうまわりのえず)」(承応3年【1654】)です。惣普請(そうぶしん)からまだ40年程しか経っていないので、石垣・土塁の形状は「佐嘉小城内絵図(さがしょうじょうないえず)」に描かれたものと同じように見えますが、本丸と二ノ丸の間の土塁で石垣と並走していた細い土塁部分がこの絵図ではなくなっていることが分かります。これは、ちょうどこの時期に二ノ丸で作事が行われたことに関係するものと思われます。
三つ目の絵図は、「元文佐賀城廻之絵図(げんぶんさがじょうまわりのえず)」(元文5年【1740】)です。一見すると二ノ丸内の通路の位置が違うこと以外は前の「承応佐賀城廻之絵図」とさほど変わらないように見えますが、よく見ると天守台付櫓(てんしゅだいつけやぐら)部分の石垣の幅が広くなり、本丸周りの石垣の内面に土塁状のものが付け足されるなど大きく手が加えられていていることが分かります。
この絵図が描かれたのが、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天守がほぼ全焼した享保11年(1726)の火災の14年後にあたることを考えると、火災で痛んだ部分の補修や火事場の後片付けに伴いこのような変化があったのではないかと思われます。
なお、この火災後の享保13年(1728)に二ノ丸が再建されますが、二ノ丸に門が造られたのは宝暦5年(1755)で、再建後27年間二ノ丸に門はありませんでした。また、本丸も天保9年(1838)まで再建されていないことから、この絵図には本丸・二ノ丸ともに門が描かれていません。
最後は、8代藩主鍋島治茂(なべしまはるしげ)の代に本格化した城堀護岸改修の時に作成された「御城分間絵図(おしろぶんげんえず)」(寛政8年【1796】)です。この絵図では、前の「元文佐賀城廻之絵図」以降描かれるようになる本丸周りの石垣内面土塁の上に樹木が付け加わっていて、経年による植栽生育の状況が見て取れます。
また、享保の火災以降再建されなかった天守の石垣部分には「御天守台(ごてんしゅだい)」「渡御櫓台(わたりおんやぐらだい)」という記載がなされ、櫓台北側の階段表記が見られるようになるのもこの絵図からです。
なお、この絵図では二ノ丸の門に鯱(しゃち)が描かれています。これは、享保11年の火災から天保9年まで本丸は再建されず、享保13年に再建された二ノ丸がその間の藩政の中心となったことによるものと思われます。
このように、残された各時代の絵図を見比べることによって、城内で行なわれたさまざまな作事の痕跡を見て取ることができます。また、今年度は、天守台上面を全面発掘したことで、天守の礎石(そせき)が非常に良好な状態で残っていることを明らかにすることができました。出土遺物や文献調査の成果から平常時の天守の使用方法等も徐々に分かってきています。
今後も調査を継続していくことで、少しずつかもしれませんが「佐賀城の謎」が解き明かされていくものと期待されます。
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承応佐賀城廻之絵図(財団法人鍋島報效会所蔵) |
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元文佐賀城廻之絵図(財団法人鍋島報效会所蔵) |
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御城分間絵図(財団法人鍋島報效会所蔵) |
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