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享保の佐賀城下を通った 象イメージ |
享保の佐賀城下を通った象
享保14年(1729)3月20日、佐賀城下の長崎街道を1頭の象が通りました。
この象は将軍徳川吉宗がベトナムから取り寄せたもので、同年3月14日に長崎を出発し、矢上宿・永昌宿・大村宿・嬉野宿・小田宿でそれぞれ一泊した後、牛津・佐賀を通過します。そして神崎宿で一泊した後、はるか江戸を目指して歩いて行きました。
この時、各地の街道沿いでは、生まれて初めて見る「珍獣」=「象」を一目見ようと大勢の人が集まり、空前の象ブームが起きています。また、大坂・京都・江戸の三都では「象志」や「象のみつき」といった解説書まで刊行され、ベストセラーになっています。
この時のことが、佐賀藩の請役家老を勤めた諫早家の日記にも下のように書かれています。
【原文】
「長崎より象江戸江御取寄せ被遊、今日御当地罷通候ニ付、兵庫様御事、為御見物白山町千綿文右衛門所、朝五ツ半比御這入被成、御見物被遊候事」
(諫早市立諫早図書館所蔵 諫早家文書「日新記」享保14年(1729)3月20日)
【意訳】
(将軍徳川吉宗が)長崎から象を江戸へお取り寄せになり、今日(象が)御当地(佐賀城下)を通るので、午前八時半頃、兵庫様は御見物のため白山町千綿文右衛門の所にお入りになって御見物なさった。
ちなみに「兵庫様」というのは、諫早家領主豊前茂晴(しげはる)の嫡子兵庫茂行(しげつら)のことです。前年に元服したばかりの15歳の少年でした。
日記によると、茂行は長崎街道沿いの白山町にある別当千綿文右衛門の屋敷から象の見物をしています。
この時、文右衛門からは二段の重箱に詰められた「ようかん」「あるへい糖」「砂糖漬」といった御菓子や薬酒などが献上されています。
残念ながら、当日の象の様子や茂行本人の感想は日記には書かれていませんが、茂行にとってこの象見物が心躍るイベントであったことは、容易に想像できます。
また、象の通る街道沿いにはあらかじめ「象の性格は臆病なので見物の時は静かにし、牛馬やネズミを近づけないこと」や、「象の食べ物として、藁・草・笹葉・大唐米(だいとうまい)・湯水・橙(だいだい)・九年母(くねんぼ)・あんなし饅頭をたくさん準備しておくこと」などのお触れが出されており、諫早ではこの象に草・笹葉・橙の他、大唐米を煮立てて粥にしたものを食べさせています。
ところで、気になるこの象のその後はというと、江戸で将軍に謁見した後、浜御殿(現 浜離宮庭園)で12年間を過ごしますが、寛保元年(1749)、餌代に困った幕府によって村人に下げ渡され、見世物として飼われた末に餓死します。その後、皮は幕府に献上され、頭蓋骨・牙・鼻は宝仙寺に買い上げられて寺宝となりました。
このようにかわいそうな末期を辿った享保の象ですが、江戸時代の珍獣である象がゆったりと佐賀城下を歩いてゆく姿やこの時の街道の賑わいを想像しながら、改めて長崎街道を散策してみてはいかがでしょうか。
※大唐米…赤米のこと。東南アジア原産の米。粘りが少なく味は悪いが、短い期間で収穫できて、炊くと倍に増えるため、江戸時代、主に西国地方で栽培されていた。(古代米の赤米とは別の品種。)
※九年母…江戸時代によく食べられていたみかんの一種。
【参考文献】
石坂昌三『象の旅 長崎から江戸へ』新潮社、1992
長崎歴史文化博物館編『珍獣?霊獣?ゾウが来た!~ふしぎでめずらしい象の展覧会』2012
大分市歴史資料館編『ゾウがいた!象が来た?』2006
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