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5重の天守が描かれた 「佐嘉小城内絵図」(財) 鍋島報效会所蔵 |
4重の天守が描かれた 「寛永御城并小路町図」 (財)鍋島報效会所蔵 |
佐賀城天守の謎…!?
佐賀城の天守は享保(きょうほう)11年(1726)の火災で焼失し、それ以降再建されることはなく、現在では天守台やそれに続く付櫓(つけやぐら)の石垣が残るだけとなっています。
ただ、財団法人鍋島報效会(ざいだんほうじんなべしまほうこうかい)に所蔵されている絵図の中に、天守が描かれたものが2点あり、往時の天守の姿をある程度窺(うかが)い知ることができます。
今回は、この2点の絵図に描かれた天守を見比べてみたいと思います。
左側は、「佐嘉小城内絵図(さがしょうじょうないえず)」(慶長(けいちょう)年間 1596~1614)に描かれた天守です。この絵図では5重の天守が描かれています。天守の脇には平屋の付櫓(つけやぐら)が続いていて、そこの石垣は現在の鍵型(かぎがた)状ではなくL字状をしているように見えます。
右側は、「寛永御城并小路町図(かんえいおしろならびにこうじまちず)」(寛永(かんえい)3年 1626)に描かれた天守です。この絵図に描かれた天守は4重で、その脇には部分的に二階建ての付櫓(つけやぐら)が続いています。付櫓(つけやぐら)部分の石垣形状についてははっきりしませんが、「佐嘉小城内絵図(さがしょうじょうないえず)」に描かれた天守や付櫓(つけやぐら)とは明らかに形が違います。
同じものを見て描かれたはすですが、なぜこのようなことになったのか理由はまだ分かっていません。
佐賀城の天守は、福岡藩の黒田如水(くろだじょすい)(孝高(よしたか))から提供された小倉城(天守:4重5階)の設計図に基づいて造られ、慶長(けいちょう)14年(1609)に完成したとされています(「元茂公御年譜(もとしげこうごねんぷ)」)。
また、正保(しょうほう)4年(1647)の「肥前国佐賀城覚書(ひぜんこくさがじょうおぼえがき)」(「有田均家御書類写(ありたひとしけおんしょるいうつし)」)には「戌亥(いぬい)ノ方ニ天守有リ、五階土台石垣五間」と書かれているだけで、何重であったのかは判然としません。
今年度は、昨年に引き続き佐賀県教育委員会文化財課と協力しながら、天守台上面の全面調査を行う予定です。また、今年度からは佐賀城関係の文献調査も本格的に開始しました。今後の調査の進展が楽しみです。
みなさんは、この2点の絵図を見てどのようなことをお感じになられるでしょうか。
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