Language

文字の大きさ

背景色

【教育長だより】鍋島直正公 銅像再建と郷土学習

更新:2017年05月22日

鍋島直正公 銅像除幕式  今によみがえる鍋島直正公の銅像

鍋島直正公銅像除幕式            今によみがえる鍋島直正公の銅像

平成29年5月22日

 
 平成29年3月4日、佐賀藩第10代藩主、鍋島直正公の銅像が見事に再建されました。当日は、佐賀県立美術館ホールで記念式典が行われ、その後、佐賀城鯱の門広場において銅像の除幕式が行われました。くしくも、「明治維新150年」を迎える前年に当たり、いよいよ来年度に向けて弾みがついたところです。
 世界に目を向け、ずば抜けた先見性と開明性を持ち、藩の財政建て直しや教育、医学、科学技術などの振興に力を注いだ直正公、どんな藩主だったのでしょうか。
 子どもたちが学習している、佐賀市教育委員会作成の郷土学習資料、読み物副読本「さがの七賢人」の中からその内容を紹介します。

 

【 みごとな藩づくり 人づくり 佐賀の名君 鍋島 直正 】

「ここまでおいで。貞丸様。」

 高い楠木のてっぺんから、遊び相手の羽室長てるが呼びました。下から登ってくる貞丸をからかっているのです。貞丸も負けてはおられません。するすると高い所まで登っていきました。同じ遊び相手の古川英次も、貞丸のあとに続きました。やっと追いつき、三人で木の枝に腰かけ、もう次にする遊びを考えていました。
 三人の中でも長てるは特に腕白で、貞丸といつも競い合っていました。相撲を取っては、「えい、やあ」と、遠慮なく貞丸を投げ飛ばしました。貞丸は泥だらけです。それでも貞丸は、長てるにかかっていき、決して引き下がることはありませんでした。
 そんな姿を、乳母の磯浜は縫い物をしながら黙って見ており、「貞丸様は、弱虫でございますな。」と、かえって貞丸に気合を入れました。
 磯浜は、貞丸が何事にも辛抱強く、たくましい人になるようにと願って育てているのでした。
 でも、貞丸たちのいたずらが過ぎると、貞丸ではなく遊び相手が罰として、磯浜から灸をすえられました。泣いて痛がる英次の姿を見て、貞丸は、「もういたしませぬ。」と涙を流し、いたずらをやめました。
 これは、しきたりとして磯浜が行なっていたのですが、貞丸に、自分のことだけでなく人の痛みの分かる人、心の広い優しい人になるように、という磯浜の思いのこもったものでした。
 このように貞丸は、次の藩主としてふさわしい、立派な心と体を持った人になるように、磯浜から厳しく育てられました。

 貞丸は、名君と言われた後の佐賀藩主、鍋島直正の小さい時の名前です。
 貞丸は、江戸の佐賀屋敷で生まれました。大きくなってから斉正、後に直正と名前を変え、十六歳の時、父・斉直の後を受けて、佐賀の第十代藩主になりました。
 その頃の佐賀藩は、長崎の警備などのためにお金が足りずに、いろいろなことで困っていました。
 藩主となった直正が、初めて佐賀へお国入りするときのことでした。品川の本陣で昼食をとった直正の籠は、夕方になっても出ようとしませんでした。たまりかねて直正は、「なぜ動かぬ。」と、家来に問い正しました。
 「江戸の屋敷に借金取りが押しかけ、後から来るはずの行列のお供が来られないのでございます。」
 「我が藩は、それほどまでに貧しかったのであるか。」
 藩にお金がないことを身をもって知らされ、直正は、唇をかみしめ、涙を流して残念がりました。そして節約をして、藩のたて直しをすることを強く心に刻み、佐賀へ向かいました。

 佐賀へ戻った直正は、南里の正定寺に参りました。その帰り、八田宿を通った時のことです。前々年の台風で、屋根が吹き飛ばされたままの破れ家に住んでいる人々を見た直正は、だまって通り過ぎることができませんでした。行列を止めて籠から降り、「困っている人々の暮らしぶりを聞いてまいれ。そしていたわってまいれ。」と、家来に言いつけました。
 そして、藩の役所に次のことを命じました。「八田宿で、破れた家にそのまま住んでいる人を見てかわいそうに思った。藩全部では、困っている人がどれほどいるか分からない。心配である。これからは、貧しく困っている人を助ける方法を工夫するようにせよ。」
 これは、直正の藩たて直しの考えを示す第一声でした。

 また、直正は、長崎へよく出かけ、世界のことを知ろうとしました。港の中にいたオランダ船に乗り込んで、船の中のつくりや様子を詳しく調べて回りました。「オランダでさえこれほどだ。まして噂に聞くイギリスは・・・。もう火縄銃の時代ではない。」
 このことが、外国の学問を取り入れようとするきっかけとなりました。
 それ以来、将来に備えての直正の勉強ぶりには、目を見張るものがありました。
 直正は、佐賀藩をたて直し豊かにするために、古賀穀堂と相談して、いろいろなことを始めました。父の斉直や古い考えの人に反対されながらも、振り切って仕事を進めました。
 まず、直正自身が、食べる物にも着る物にも徹底して節約しました。
 それから藩の仕組みを簡単にして、費用を切りつめたり、佐賀の特産物の焼き物、石炭などの生産に力を入れたりしました。また、小作人は、十年間地主に米を納めなくてよいという思い切ったきまりを作りました。そのため、貧しかった農民たちの暮らしが少しずつ楽になりました。それにたくさんの新しい田んぼ作りも行いました。
 こうして、十年後にはようやく藩の暮らしがよくなりました。

 一方、外国から国を守るためには、進んだ学問を取り入れ、大砲を造ることができるような力を持たなければならないと考えました。
 しかも大砲を、佐賀藩の人だけの手で造ろうと考え、まず反射炉づくりを始めました。
 ともかく初めて取り組む大仕事ですので、仕事に当たった人々は、オランダの本を日本語に変えたり、炉の中の曲がり具合、鉄の溶け具合などがわからなかったりと、苦労の 連続でした。
 反射炉ができ上がってからも、炉の中の温度が上がらないため鉄がうまく溶けず、大砲づくりは失敗ばかりでした。人々は、工夫をし根気強く仕事を続けましたが、なかなか上手くいかず、責任者は切腹まで考えるほどでした。直正は、「死のうとはいったい何事であるか。西洋人がやれていることをやれないはずがあろうか。心を奮い起こして、必ず成功させてみよ。」と諭し励ましました。この言葉に人々は感激し、ますます努力を重ねました。そして、ついに佐賀藩の人々の手で、日本最初の鉄製の大砲が完成しました。大砲は、さっそく長崎の港に備え付けられ、国の守りを固めることができました。
 直正はそのほか、理化学研究所のような「精煉方」をつくり、佐野常民をリーダーにして蒸気機関車の模型を完成させたり、三重津には造船所をつくって、日本で最初の蒸気船「凌風丸」を完成させたりしました。

 また、直正は、新しい医学も進んで取り入れました。その頃日本では、天然痘という病気が流行し、たくさんの人が死んでいました。直正は、ジェンナーが発見した種痘を知り、オランダの医師に頼んで自分の子どもに試してみました。この方法は見事に成功して、佐賀藩だけでなく日本中に広まり、天然痘にかかる人はほとんどいなくなりました。
 これらの成功は、外国の学問を学び、仕事のできる人々が直正を一生懸命支えたからでした。
 それももともとは、直正が外国の学問を取り入れただけでなく、優秀な人を育てるために教育に力を入れた結果でした。
 藩の学校、弘道館を大きくし、進んだ学問を学ばせるために医学校、蘭学寮、致遠館を建てました。これらで学んだ人々の中から、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信など、新しい日本を動かす者がたくさん生まれました。
 直正はこのように、いち早く外国に目を向け、その進んだ考えや技術を、実際に藩づくりや人づくりに役立てました。歴史に残る「名君」の名にふさわしいすぐれた殿様でした。

 

 佐賀が最も輝いていた幕末維新期、それを創りだした原点とも言える直正公、人づくりを重視し、やがて、維新期の日本の近代化をリードしていく幾多の人材を育てられた。まさに、今の日本の礎は佐賀から始まったのです。

 私たちは、佐賀が輩出した先人の高き「志」に学び、その生き方を後世につないでいく責任があります。学校教育においても偉業を成した先人たちのものの見方・考え方、生き方をしっかりと学ばせ、志を持ち、進取の精神に満ちた青少年を育てたい。再建された直正公の銅像は、まさに市内で学ぶ子どもたちの郷土学習の基点ともなり、ますますその充実に努めてまいりたいと考えるところです。

 

これまでの教育長だよりはここをクリックしてください。

 

  • Facebookシェアボタン
  • Twitterツイートボタン
  • LINEに送るボタン

このページに関するお問い合わせ

教育部 教育総務課 総務係
〒840-0811 佐賀市大財3丁目11番21号 大財別館3階
電話:0952-40-7351 ファックス:0952-40-7394
メールアイコン このページの担当にメールを送る