佐賀県重要文化財

更新:2018年12月17日

佐賀県重要文化財の紹介です。

 

青漆塗萌黄糸威二枚胴具足

青漆塗萌黄糸威二枚胴具足

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成22年3月12日

初代佐賀藩主鍋島勝茂(1580-1657)が着用した総体青漆塗の当世具足。 兜高 29.0センチメートル 胴高 45.0センチメートル

青漆とは漆に石黄(せきおう)等を混ぜて青緑色に発色させたもので、桃山時代以降の甲冑にまれに見られるます。

兜は桃の実を象った桃形兜で、古様な杏葉紋の前立をつける。桃形兜は西洋の兜の影響を受けて作られた変り兜の一形式で、桃山から近世初頭にかけて佐賀藩をはじめ福岡藩、柳川藩など九州各地で特に多く用いられました。胴は鉄板に漆で小札(こざね)の刻みを盛上げて本小札のように見せた切付盛上小札の板を上下に連ねて固定し、左脇の蝶番で開閉して着用する二枚胴です。

寛永14年(1637)島原の乱の折に勝茂が着用し、その5年後に末男直長(明暦元年に神代家の家督を相続)に与えられました。その後は直長の息子茂真に始まる鍋島内記家に幕末期まで伝来しています。

(附) 輪金 一点、 鍋島内記茂生書付 一通、 鎧櫃 一合

大日如来坐像

大日如来坐像

所在地(所有者)/久保泉町川久保(妙福寺)

指定年月日/平成20年3月14日

大日如来坐像は、佐賀市川久保の臨済宗妙福寺の本尊仏として、人々の尊敬を受けています。この像の制作時期は、表現や一木造りの構造からみて11世紀の後半と考えられます。作者は恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)といわれていますが、天台宗の源信にまつわる信仰がかかわっていた可能性をうかがわせます。また、像の背面には修理の際のものと思われますが、佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂の名が残っており、勝茂の仏教信仰の一端を知ることができます。

薬師如来立像

薬師如来

木造薬師如来立像

所在地/富士町大字中原 中原薬師堂

指定年月日/ 平成15年3月10日

楠材の一木造り、彫眼、漆箔・彩色で像高161センチメートルを測り、部分的に内刳りが施されています。浅い衣文の彫出で、扁平な量感をおさえた体躯から平安時代後期の製作と考えられますが、一木造りの構造や唇をとがらせた個性的な表現は古様で、脊振山系で栄えた平安時代の仏教文化を知る上で重要な仏像です。

十三塚遺跡出土鏡

十三塚遺跡出土鏡

所在地(所有者)/城内一丁目 (佐賀県立博物館)

指定年月日 /平成18年6月19日

1971年、佐賀市大和町川上の山間部の工事中に箱式石棺墓一基が発見され、2体の人骨とともに方格規矩鳥文鏡1面と夔鳳鏡片1面、鉄製刀子1点が副葬されていました。方格規矩鳥文鏡は、径15.4センチメートルの中型鏡で、内区の中心にやや大きめの半球鈕があり、その周囲を18個の珠文が巡ります。夔鳳鏡は縁と内区の一部が残る鏡片で、復元径は約11.0センチメートルと推定されます。平縁で内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施されます。製作時期は、後漢時代中期から後期とみられます。古墳時代前半期の埋葬施設からの方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡の出土例は国内においても稀であり、佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要な位置を占めています。

石塚一号墳出土遺物

石塚一号墳出土遺物

所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(佐賀市)

指定年月日/平成8年5月29日

石塚古墳群は筑後川河口西岸に位置する佐賀市諸富町の南部、標高3~4mの低平な水田部に立地し、これまでのところ、佐賀平野南部で確認できた唯一の古墳です。古墳は現在までに2基確認されており、このうち1号墳は昭和63年に調査が実施され、横穴式石室から挂甲や金銅製装飾金具等の遺物が多数出土しました。1・2号墳とも墳丘の大部分が削られ、石室も一部が残存するのみとなっています。
挂甲は胴甲1領分がほぼ完存し、他に付属品が一部分残存しています。銅製飾金具は3点以上が出土しています。表面はタガネにより文様を打ち出しています。全体が復元できるもののうち1点は、径6.6センチメートルで中房が盛り上がり周囲に17弁の蓮華文を配しています。他の1点は、径7.0センチメートルで、7弁を配して中央に火炎文を表したものです。馬具のうち杏葉は鉄地金銅張のもので7点出土しています。
この出土遺物は、同時に出土した須恵器の形式等から6世紀後半~末のものと推定することができます。

銅造明神鳥居

銅造鳥居

所在地/諸富町大字大堂 大堂神社

指定年月日/昭和46年6月23日

この銅造鳥居は、大堂神社の三の鳥居(寄進時は一の鳥居)とされ、寛永17年(1640)の造立銘をもつ県内唯一の鋳銅製の明神鳥居です。

高さは4.78メートル、笠木の長さは6.87メートルになります。
島原の乱に出陣した小城藩初代藩主鍋島元茂が、戦勝祈願成就に寄進した鳥居で、左柱には、次のような銘が陰刻されています。
寛永十七年庚辰年二月十五日
大願主 従五位下鍋島紀伊守 藤原元茂(以下略)。

一本木遺跡出土遺物

湖州鏡

所在地(所有者)/大財3丁目11番21号 (佐賀市)

指定年月日 /平成10年5月11日

一本木遺跡は尼寺所在の弥生~中世までの複合遺跡で集落や墓地などが調査されました。鎌倉時代の土壙墓から猪目型の湖州鏡と鉄製の鑷子(せっし、毛抜き)、土師器の坏、皿が出土しました。湖州鏡は鏡面を上に土壙墓床面直上から出土し、その上に鑷子が置かれていました。鏡は長径10.5センチメートル、短径9.1センチメートル、厚さ0.2センチメートル、下部に「湖州石家煉」の文字が陽刻されています。この文字は類例と比べて方向が異なっているのが特徴です。鑷子は両先端の一部を欠失しています。残存長7.0センチメートル。これらの遺物は同時に出土した土師器から13世紀前半代のものと考えられ、鎌倉時代の墓制を知る上で貴重な遺物です。

本村籠遺跡出土遺物

多鈕細文鏡.ヤリガンナ.管玉

所在地(所有者)/ 大財3丁目11番21号 (佐賀市)

指定年月日 /平成5年3月31日

本村籠遺跡は佐賀市の嘉瀬川西岸にあたる大和町池ノ上の低段丘上に位置する遺跡です。弥生時代中期初頭の58号甕棺墓から多鈕細文鏡、青銅製ヤリガンナ、および碧玉製管玉18個、弥生時代前期末の2号甕棺墓から青銅製斧が出土しました。多鈕細文鏡は面径10.5センチメートル、青銅製ヤリガンナは幅2.1センチメートル、長さ3.4センチメートルで使用による研ぎ減りがみられます。碧玉製管玉は長さ4~7ミリメートル、径は約3ミリメートルと小さなものです。青銅製斧は刃部が欠損し、長方形板状をなし、幅4.2センチメートル、長さ2.6センチメートルを測ります。この種の青銅斧としては我が国唯一の出土例として注目されます。県立博物館に保管されています。

惣座遺跡出土遺物

ガラス小玉と銀製指輪.鋳型

所在地(所有者)/ 大財3丁目11番21号 (佐賀市)

指定年月日/平成2年3月30日

惣座遺跡は弥生時代の集落と墓地からなる遺跡です。剣・矛を刻んだ石製鋳型は掘立柱建物跡の柱穴から、ガラス小玉と銀製指輪は土壙墓から出土しました。石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2センチメートル、残存幅4.2センチメートル、表裏両面に銅剣型、側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれています。これから鋳造された製品は剣・矛とも細形形式で、特に矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来は朝鮮半島からの舶載品と考えられていた型で、青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにしました。銀製指輪は、土壙墓の頭位側から3個重なって出土しました。いずれも径2センチメートル前後で、針金状の薄板を曲げて作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いています。ガラス製小玉は総数6810個と多量で、一連にすると9mを超える見事なブルーの連珠となります。

銅戈

銅戈

所在地 (所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(個人)

指定年月日/昭和52年3月11日

全長39.3センチメートル 重さ405gの銅戈です。大正8年に個人の宅地内(尼寺一本松遺跡)の造成中に切先を北に向け、水平な状態で出土したと伝えられています。

銅戈の形式としては中広形に属し、弥生時代後期の製作と推定されます。この銅戈の出土した、周囲には弥生時代の遺跡がひろがっており、当時の祭祀のありかたを考える上で貴重な資料です。

銅釦

銅釦

所在地 (所有者)/城内一丁目(佐賀県教育委員会)

指定年月日/昭和62年3月16日

長崎自動車道建設に伴う調査で全国的にも出土例の少ない装飾用と考えられる朝鮮系青銅器の銅釦が、佐賀市川上の西山田二本松遺跡の弥生中期時代の2号住居跡から出土しています。半島青銅器文化の影響を示す遺物として貴重なものです。

高城寺文書

足利尊氏御教書

所在地 (所有者)/城内二丁目 県立図書館(高城寺)

指定年月日/昭和61年3月19日

鎌倉~江戸期の古文書100通が指定されています。文治2年の源頼朝下文案など在地領主の高木・国分氏の関連文書から国分氏の氏寺・尊光寺関連文書、足利尊氏や後醍醐天皇など動乱期に高城寺が幕府・朝廷と関わりをもったことが知られる文書、高城寺が所有していた佐賀平野南部の干拓関連文書など肥前の中~近世の動向を知る上で欠かせない資料を多く含んでいます。現在は県立図書館に保管されています。

実相院仏具

戒体箱

所在地(所有者)/大和町大字川上(実相院)

指定年月日/昭和49年2月25日

平成9年5月9日(追加指定)

密教の儀式において使用する法具をおさめる箱は、入れるものの用途にわけて戒体箱、説相箱と呼ばれています。実相院にはこの戒体箱が一合、説相箱が二口あります。その他に如意と呼ばれる孫の手が変形した仏具が伝わっています。木箱の外側に金銅板を貼って、密教の法具をデザインした金具を貼り付けています。如意も金銅板に精緻な唐草文などを表しています。それぞれに銘文が陰刻されており、天文元(1532)年に円政寺という寺院で実快という人物の代に製作されたことや戒体箱の作者名(国嶋)などがわかります。

水上懸仏

懸仏

所在地/ 城内一丁目 佐賀県立博物館

指定年月日/ 昭和28年11月3日

神の象徴である鏡に仏像をあわせた神仏習合像です。薬師如来像を鏡に貼り付けています。銅造で鏡部は直径37.1センチメートル、如来の像高は20.6センチメートルを測ります(台座含む)。

裏面に墨で奉納者の人名や、その厄払いや息災延命や福徳を願って文永8(1271)年に奉納されたことが書かれています。年号の判明する懸仏としては県内最古のものです。

万寿寺参道の彦山権現の小祠に祀られていたもので、現在は佐賀県立博物館に保管されています。

木造無著妙融像

無著妙融像

所在地(所有者)/大和町久池井(玉林寺)

指定年月日/平成13年2月28日

無著妙融(真空禅師・1333~1393)は薩摩大隅の出身で大和町川上の万寿寺等で修行後、曹洞宗の普及に九州各地で活動しています。玉林寺は至徳元(1384)年に在地領主鑰尼李高・開基、無著妙融・開山となり創建されました。本像は像高66.8センチメートル、ヒノキ材の寄木造の玉眼、彩色像です。寄木の構造や衣文から院派仏師よりに制作され、その時期も寺院の建立時期に近いものと考えられます。

絹本着色普賢延命菩薩騎象像

普賢延命菩薩騎象像(部分)

所在地(所有者)/ 大和町川上(実相院)(建造物の項参照)

指定年月日/昭和50年2月24日

4頭の白像の上に乗る20本の手のある普賢菩薩が描かれています。息災延命を祈る普賢延命法という法要のご本尊です。彫刻では重要文化財の佐賀市龍田寺像がよく知られています。実相院の普賢延命菩薩像は縦123.0センチメートル、横79.0センチメートルの絹に描かれ、その描き方から南北朝時代の製作と考えられ、県内に残る仏画のなかでも古いものです。

実相院仁王門

仁王門

所在地/大和町川上 実相院

指定年月日 /昭和55年3月21日

寺伝では僧行基が和銅5(712)年に開山、古文書では寛治3(1089)年に円尋が堂舎を建立し河上山別所としたのが初見です。安元2(1176)年には河上山神通寺と称されました。山主は河上山座主として与止日女(河上)神社も統括しました。建暦元(1211)年までは天台宗で、その後真言宗となりました。実相院はこの神通寺を構成していた子院のひとつで文明18(1486)年頃には一山を代表し、今日に至っています。仁王門は三間一戸の八脚門で県内では数少ない江戸時代前半の建造物で内部には市重文の仁王像を安置しています。

与止日女神社西門

西門

所在地/大和町川上 与止日女神社

指定年月日/昭和61年3月19日

欽明朝25(564)年創建と伝えられ、平安時代末期には肥前国一の宮となり、多くの社領を有しました。中世には河上神社とも称され、社殿、鐘楼、三重塔、南大門などの建物がありましたが、元亀元(1570)年の豊後大友氏の肥前侵攻によって焼け落ちました。その後、建物は再建されましたが、再び焼失し現在の社殿は文化13(1816)年に再建されたものです。西門は大友氏の肥前侵攻直後に再建されたもので唯一現存する建造物です、実相院文書の棟札写しから元亀4(1573)年の建立と判明する県内で最も古い社寺建築です。

石造肥前鳥居

石造肥前鳥居

所在地/本庄町大字本庄 本庄神社

指定年月日/昭和39年5月23日

高さ3.8メートル、笠木の長さ5.15メートル。笠木、島木、柱および貫はいずれも3本継で、島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻はゆるやかに反り、柱は下部になるにつれしだいに太くなる肥前鳥居の形式をなしています。県内には、このような石造肥前鳥居が多く見られます。この本庄神社の鳥居は慶長8年(1603年)発卯9月28日の造立銘が陰刻されています。

泰長院文書

泰長院文書

所在地(所有者)/佐賀市与賀町(泰長院)

指定年月日/昭和59年3月21日

泰長院文書は、全部で105通あり、これを大小12軸の巻物に仕立てられています。文書は大きく分けると、次のようになります。

  1. 龍造寺氏から当院の住僧にあてた書状
  2. 鍋島氏から当院3世住職是琢和尚にあてた書状
  3. 肥前国内諸家その他からの書状
  4. 朝鮮の役のとき、敵国諸武将から鍋島直茂にあてた書状
  5. 是琢の日記

このように全国でも類を見ない重要な文書が多数この寺に残されているのは、是琢和尚が直茂の朝鮮出兵に従い、幕僚として渉外に関与していたからです。

正法寺文書

正法寺文書

所在地(所有者)/城内2丁目 佐賀県立図書館(正法寺)

指定年月日/昭和61年3月19日

正法寺文書は、現佐賀市高木瀬町の臨済宗東福寺派正法寺に伝来したもので、総数32通、時代は鎌倉時代から室町時代にわたるものです。最も年代の古い正和3年(1314年)の鎮西御教書(ちんぜいみきょうしょ)は、鎮西探題北条政顕が寺領内で武士が乱暴なふるまいをはたらくことを禁じたもので、寺を保護するための命令書でもあります。

深江家文書

深江家文書

所在地(所有者)/城内1丁目 佐賀県立博物館(個人)

指定年月日/昭和62年3月16日

深江家は、鎌倉時代には安富氏と名乗り、肥前国高来、東郷深江村の地頭でした。戦国時代には九州北部域を領した龍造寺隆信の勢力下に入り、隆信没後は鍋島氏の配下となりました。この深江家文書は総数104通あり、それが巻物3巻に仕立てられています。文書には鎌倉から戦国時代の肥前領の動きや、当時の政情が記されており、中世史を研究する上で重要な資料といえます。

末代念仏授手印

末代念仏授手印

所在地(所有者)/伊勢町(大覚寺)

指定年月日/昭和45年2月11日

浄土宗の開祖は法然上人(ほうねんしょうにん)といいますが、上人没後、徒弟間で教義解釈に違いが生じてきました。そこで高弟の一人弁長が、上人の教義をまとめ統一を図りました。このまとめられた教義に弁長自らの手印を押したものを「末代念仏授手印」といいます。これは鎌倉新仏教を研究する上で重要な資料といえます。

関行丸古墳出土遺物

関行丸古墳出土遺物

所在地(所有者)/城内1丁目(佐賀県立博物館)

指定年月日/昭和48年4月23日

関行丸古墳(佐賀県史跡)は脊振山南麓の丘陵上に造成された、全長55メートルの前方後円墳です。主体部は横穴式石室で、内部からは5体分の人骨と銅鏡、金銅製冠帽、貝輪、勾玉、管玉、鉄鏃などの多数の副葬品が出土しました。これらの副葬品や石室の形状からみて、この古墳は6世紀初め頃に築成されたと考えられます。

丸山遺跡1・2・6・7号墳石室および出土遺物

丸山遺跡1・2・6・7号墳石室および出土遺物

(石室)所在地(所有者)/佐賀市金立町大字金立(佐賀市)

(遺物)所在地(所有者)/城内1丁目 佐賀県立博物館(佐賀市)

指定年月日/昭和59年3月21日

久保泉丸山遺跡は縄文時代晩期から弥生時代前期の118基の支石墓と、5から6世紀の12基の古墳群が小さな台地上にまとまって存在していた複合遺跡です。遺跡そのものは佐賀市久保泉町川久保に位置していましたが、長崎自動車道建設のために、この場所に移されました。古墳の石室には竪穴式と横穴式があり、竪穴式石室の中で最大のものは長さ1.87メートル、幅0.73メートル、高さが0.76メートルあります。石室の中からは鉄剣や鉄ほこ、刀、やりがんな、勾玉など多くの出土品も見つかりました。

花納丸古墳出土遺物

花納丸古墳出土遺物

所在地(所有者)/城内1丁目(佐賀県立博物館)

指定年月日/昭和56年3月16日

佐賀市久保泉町川久保にあった花納丸古墳は、天保11年(1840年)に破壊された折り、佐賀藩の儒学者、草場佩仙が出土遺物の記録を取ったものとして知られています。この古墳からは銅鏡、三環鈴(さんかんれい)、管玉(くだたま)、などが出土しており、その特徴から5世紀後半の所産と考えられています。出土遺物の重要性もさることながら、江戸時代の考古学的な調査資料としても貴重なものといえます。

鍋島本村南遺跡出土遺物

鍋島本村南遺跡出土遺物

所在地(所有者)/本庄町大字本庄 佐賀市文化財資料館(佐賀市)

指定年月日/平成4年5月27日

鍋島本村南遺跡は、弥生時代から近世にかけての複合遺跡で、平成元年度に発掘調査を行いました。石製把頭飾(せきせいはとうしょく=剣の柄飾り)は338号土壙から出土し、ほぼ完全な形で長さ5.0センチ、十字型の飾り部分は長軸が5.0センチ、短軸が3.9センチあります。銅戈鋳型は弥生時代の345号土壙から出土し、ほぼ中央部のみが残っていて、内面は熱を受けて黒色に焼けています。細形銅剣は弥生時代の2号土壙から出土し、全体の3分の2ほどが残っていて、片側がひどく刃こぼれしています。3点とも正確な年代はわかっていませんが、銅戈鋳型は日本で最古級に属するものであると思われます。

紙本著色福満寺古図

紙本著色福満寺古図

所在地(所有者)/北川副町大字江上(長尾山福満寺)

指定年月日/昭和51年2月25日

佐賀市南東の平野に、真言宗のお寺、福満寺があります。この寺は天台宗の開祖最澄が延暦23年(804年)に建てたと伝えられていますが、後に真言宗になったものです。この図は、足利直冬が1345年から1350年以降の福満寺の伽藍を描かせたものと伝えられます。建物がそれぞれ異なった角度から描かれている点や、筆の運びのかたさ、松葉の平面的なとらえ方などから、室町時代末期から桃山時代にかけての作と考えられています。

絹本着彩与賀神社縁起図

絹本着彩与賀神社縁起図

所在地(所有者)/与賀町(与賀神社)

指定年月日/昭和53年3月1日

与賀神社縁起図は延宝6年(1678年)に佐賀藩鍋島家から奉納寄進されたものです。筆者は永松玄偲で、与賀神社が造られて御神幸が行なわれるまでの過程が物語風に描かれています。画題は、建物、人物、山川、松楠竹などの樹木の4種からなり、人物をはじめその描写は細密で、画面の構成もよく整っており、一見大和絵風にも見えます。

正法寺所蔵大般若経

正法寺所蔵大般若経

所在地(所蔵者)/城内1丁目 佐賀県立博物館(正法寺)

指定年月日/昭和49年2月25日

この写経は、もともと縦26.8センチ、横13.0センチの折帖装でしたが、風水害によって、重なっていた紙と紙とがくっついてしまい、紙のかたまりとなったものもあります。書き写された時代は平安末期から鎌倉初期と思われるものから江戸時代のものまであります。罫間1.9センチの罫線に1面7行、1行17字を典型的な写経風の整った文字で書かれています。

短刀

短刀

所在地(所有者)/松原2丁目(佐嘉神社)

指定年月日/昭和42年4月22日

肥前刀刀工の祖といわれる初代忠吉の数少ない短刀のひとつで、晩年の代表作。長さ29.6センチ、反り0.1センチ。刃の幅は広く、豪壮、優美な印象を与えるこの短刀は佐賀10代藩主、鍋島直正が愛用したものといわれています。現在は佐嘉神社に御神刀として奉納されています。

薙刀

薙刀

所在地(所有者)/城内1丁目 佐賀県立博物館(個人)

指定年月日/昭和51年2月25日

貞治元年12月、備前刀工長船派政光によってつくられた、長さ61.2センチのなぎなたです。政光は長船派相伝備前系の兼光一門の一人です。彼の作刀では「康安元年11月日」の紀年銘の太刀が国の重要文化財に指定されています。

マンドリンを持つ少女 百武兼行筆

マンドリンを持つ少女 百武兼行筆 一面

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成9年5月9日

この作品は、明治12年(1879年)にパリで描かれた作品で、明治初期にヨーロッパで本格的な画技を修めた旧佐賀藩士 百武兼行の代表作です。明治以降、佐賀からは久米桂一郎、岡田三郎助をはじめ、優れた洋画家が多数輩出しています。百武の作品はそれらの先駆として高い価値を有しています。

 

 

 

太刀 朱銘國行

太刀 國行の朱銘あり 一口

所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/昭和54年3月31日

國行は鎌倉中期を代表する山城国(京都府中部南部)の刀工で来派の祖といわれています。
この太刀は時代を反映した豪壮な太刀姿で、品位があり鎌倉中期の典型的な姿を残しています。2代佐賀藩主鍋島光茂の佩刀と伝えられています。

長さ70.6センチメートル、反り2.4センチメートル。

太刀 朱銘来國光

太刀 来国光朱銘 1口

所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/昭和59年3月21日

来派は國行を祖として鎌倉時代中期から南北朝にかけて栄えた山城国の刀工です。その中で、國光は来派3代目来國俊の子あるいは門人といわれ、鎌倉末期から南北朝初期にかけて同派を代表する刀工です。
この太刀は鎌倉末期の典型的な優品で、実戦向きの豪壮な姿と格調の高さをうかがうことができます。4代佐賀藩主鍋島吉茂の佩刀と伝えられています。

長さ71.6センチメートル、反り2.2センチメートル。

刀 銘 肥前國住藤原忠廣 寛永七年八月吉日

刀 銘 肥前国住藤原忠広 寛永七年八月吉日 1口

所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/昭和48年4月23日

忠吉は、龍造寺家の抱工橋本道弘の子として生まれ、慶長元年(1596年)に上洛し埋忠明寿に学び、帰郷後、鍋島藩の抱工となりました。後に名を藤原忠廣と改め、「肥前国忠吉」の初代にあたります。

この刀は寛永7年(1630年)8月吉日の銘があって、忠吉晩年の円熟した作風がうかがわれます。初代佐賀藩主鍋島勝茂の佩刀伝えられています。

長さ75.6センチメートル、反り1.2センチメートル。

刀 長巻なおし 折返銘 正平十肥州末貞

刀 長巻なおし 銘 正平十肥州末貞

所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/昭和54年3月31日

末貞は肥前では数少ない古刀類の刀工で、南北朝初期の14世紀中頃に塚崎庄(現在の武雄市一帯)に住んでいたといわれています。
この長巻は中心銘を折り返しにしたもので、もともと長巻として使用されていたものです。肥前では数少ない古刀期の刀で、龍造寺隆信の佩刀と伝えられています。
長さ62.2センチメートル、反り0.8センチメートル。

色絵流水文碗(台付)、色絵瑠璃地桜花散らし文碗(台付)

色絵{流水文碗(台付)、瑠璃地桜花散らし文碗(台付)} 二組1

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成13年2月28日

安政2年(1855年)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載される「古南京染付御天目 二」「右御臺 二」に該当する作品です。

この2組の碗は、器形と形成の特徴が同じであり、同時期に同工房でつくられた一対のものと考えられます。有田御道具山から大川内鍋島焼への過渡期に、大川内鍋島焼の前身的な窯である有田岩谷川内の御道具山で制作されたものと推定されます。双方とも色絵に金彩を使用しています。この技法は柿右衛門文書により1650年代後半に始まったと推定されていましたが、本品は初代藩主勝茂公(~1657年)の御道具であり、それより遡るものとして、きわめて貴重な品です。

蒸気車雛形 附貨車他

蒸気車雛形 附貨車他 1台

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成17年3月30日

嘉永5年(1852年)に設置された佐賀藩精煉方では理化学を中心に科学技術の研究・開発にあたりました。その中で蒸気機関の開発・試作にも尽力し、安政2年(1855年)には蒸気車及び蒸気船の雛形に着手したとされています。
この雛形は精煉方主任の佐野常民を中心に作られた国産初の蒸気エンジンをもつ陸上交通機関の試作品です。幕末の佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料です。

蒸気船雛形 (外輪船)

蒸気船雛形 (外輪船) 1隻

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成17年3月30日

安政2年(1855年)に佐賀藩精煉方で製作されたとされる蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー船2隻のうち外輪船です。
国産初の蒸気船「凌風丸」の建造につながる佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料です。

蒸気船雛形(スクリュー船)

蒸気船雛形(スクリュー船)一隻

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成17年3月30日

佐賀藩精煉方で製作された蒸気船の雛形で、外輪・スクリュー船2隻のうちスクリュー船です。

近年の調査により、内部構造の比較から、蒸気車から外輸船、スクリュー船の順で技術進歩の段階を経ていることがわかりました。
国産初の蒸気船の建造につながる佐賀藩の科学技術の水準の高さを示す重要な資料です。

紺紙金字妙法蓮華経(七帖)

紺紙金字法華経七帖

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成8年5月29日

この法華経は、第7巻の奥書や施入銘により、至元6年(1340年)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことや、対馬を通じて高麗と修交していた少弐頼尚が正平12年(1357年)に太宰府天満宮に寄進したこと、尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663年)に枝吉利左衛門により修理再納されたことなどがわかります。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても貴重なものです。

 

紺紙銀字妙法蓮華経(八帖)

紺紙銀字法華経八帖

所在地(所蔵者)/佐賀市松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/平成10年5月11日

 この法華経は、朝鮮半島高麗時代、忠粛王復位元年(1332年)に制作されたと推定されています。中国や朝鮮半島の法華経は、7巻本が通例ですが、この法華経は高麗写経としては極めて珍しい8巻本であり、確認される高麗写経のなかで8巻本法華経唯一の遺例です。
東アジアにおける経典見返し絵の変遷を考察する上で重要な作品であり、高麗時代の仏教美術を代表する作品です。

佐賀市上高木出土銅矛

  佐賀市上高木出土銅鉾     

所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)

指定年月日/昭和55年3月21日

 明治43年、佐賀市上高木の水田で、粘土を採取するために2.4mほど掘り下げたところ、銅鉾2口が発見されたといわれています。うち1口は全長87.5センチメートルで、ほぼ完形に近いものでしたが、現在その行方はわかっていません。もう1口であるこの銅剣も、全形がわかる程度に残っていますが、大きく破損しています。その形態からみて、完全に祭器化した広形銅鉾に属するものです。時期等不明な点が多いですが、佐賀県において広形銅鉾の出土例は少ないことなどから、貴重な資料となっています。現存長85.6センチメートル。

 

 

 

 

 

 

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