国指定重要文化財
国指定重要文化財の紹介です。
山口家住宅
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所在地/川副町大字大詫間
指定年月日/昭和49年2月5日
建築年代は19世紀中頃と推定されます。建築は北向きで、正面5間半(半間の瓦庇付)、側面6間の寄棟造りです。正面西側に馬屋が付設されています。山口家の特徴は葦ぶきの屋根の形で、上から見るとほぼ正方形で、その内側は谷状に低くなっています。雨水は谷状の中央に集まり、屋根裏にある瓦製の樋から西側の軒下へ導かれ排水されます。このような四角形の屋根の家は、「じょうご谷」「四方谷」と呼ばれ、日本では佐賀県南東部と福岡県西南部だけにみられます。
山口家はじょうご谷民家では建築年代も古く、旧状もよくとどめており、民家建築の変遷を知る上から価値が高いものです。
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吉村家住宅
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吉村家住宅
所在地/富士町上無津呂字羽金
指定年月日/昭和49年2月5日
佐賀県の代表的な山村地域のある筑紫山地の中心部に所在するこの住宅は、山間部に多く見られる棟を一直線につくる直屋形式の代表例です。屋内に残された墨書銘から、天明9年(1789)に建築されたと考えられ、年代が確実な県下では最古の民家です。建物内部は、土間、居室、座敷および寝室に大きく3分割されます。昭和57~58年度に半解体修理を行いました。
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旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)
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所在地/諸富町大字為重地先、福岡県大川市大字向島地先
指定年月日/平成15年5月30日
昭和10年(1935)に国鉄佐賀線の敷設とともに架設された可動鉄橋で、福岡県大川市と佐賀県佐賀市をつないでいます。中央部の橋梁を吊上げて、船舶の通行の便をはかるもので、ワーレントラストを用いた橋の中央に、高さ30mの昇降施設が2基そびえています。昭和62年の廃線後、現在では可動橋の機能を残しつつ、遊歩道として活用されています。
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築山瓦経(つきやまがきょう)出土遺物
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所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(佐賀市)
指定年月日/平成11年6月7日
佐賀市大和町尼寺跡南の築山古墳の頂上から発見されました。内容は妙法蓮華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経、法華懺法の5経典と奥書、仏画等、瓦経229枚と附として刀子3口が指定されています。奥書から平安時代の天養元(1144)年に在地有力者によって製作されたことが判明しています。この時期の仏画は九州でも少なく、
また瓦経の埋納状況が考古学的に明らかにされた例は全国でも2例目です。現在は県立博物館に保管されています。
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河上神社文書
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所在地(所有者)/城内2丁目 県立図書館 (与止日女神社)
指定年月日 昭和55年6月6日
平安~室町時代の古文書、計247通が指定されています。肥前国一の宮の信仰形態を記した文書、院庁・太宰府・国衙関連の文書や公領・荘園の内容を記した文書、神社と武士階層との土地管理をめぐる訴訟関係の文書など北部九州の中世史を知る上で貴重なものが多く含まれています。現在は佐賀県立図書館に保管されています。
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金銅宝塔
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所在地(所有者)/大和町川上(実相院)
指定年月日/平成9年6月30日
お釈迦様の遺骨である舎利を納置する金銅製の宝塔です。高さ65.5センチメートル、銅造で鍍金・鍍銀が施されています。細身でやや細い塔身は時代の特徴をよく示し、精巧な組物や金具類、塔身の扉の裏表に表された精緻な線刻八方天や蓮華唐草文など、保存も良好な南北朝時代の工芸品として貴重です。
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銅鐘
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所在地(所有者)/大和町川上( 健福寺)
指定年月日/昭和25年8月29日
高さ83.8センチメートルの銅製の梵鐘です。鐘身に銘文が刻まれており、建久7(1196)年に鋳造したことや関係者の人名等が刻まれています。県内で現存する最古の梵鐘です。健福寺は行基菩薩開山の伝説のある古い寺院で、現在地から南西の元真手にあったようで真手千坊といわれ隆盛をきわめたと伝えられます。江戸時代に現在地に移され実相院の末寺となりました。この鐘は慶長年間に災害で一時期、真手を離れ、佐賀天佑寺に置かれていましたが夜な夜な帰りたいと泣くので、銘に「真手山」とあったので返されたという伝説が伝わります。
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木造圓鑑(えんかん)禅師坐像
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所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(高城寺)
指定年月日/昭和25年8月29日
圓鑑禅師(蔵山順空・1233~1308)は大和町川上の万寿寺の神子栄尊のもとで出家、その後円爾、蘭渓道隆の法弟となり禅を学び、執権北条時頼の勧めで宋へ留学、帰国後に久池井の地頭職・国分忠俊に請われ、文永10(1273)年に尊光寺院主となりその後、久池井の春日山の中腹に高城寺を開山しました。本像は順空が正安2(1300)年、京都東福寺住職として上京の際に弟子たちが別れを惜しんで造立したことが修理の際に判明しています。像高85.0センチメートル、ヒノキ材の寄木造で玉眼、彩色像です。順空68歳の姿で確証を得ることの少ない生前に造られた肖像彫刻として貴重です。
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与賀神社三の鳥居
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所在地/与賀町 与賀神社
指定年月日/昭和45年6月17日
与賀神社の鳥居は慶長8年(1603年)に造られたとされ、肥前鳥居の形式で作られています。その形式は、柱が三本継となっているのが基本的で、柱の下部が太く、笠木と島木が一体となり、これも三本継となっています。肥前鳥居は室町時代の末期から江戸時代初期にかけて肥前国を中心として普及しました。この神社の鳥居は造立の古いものに属す、典型的な肥前鳥居です。
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与賀神社石橋
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所在地/与賀町 与賀神社
指定年月日/昭和45年6月17日
与賀神社の石橋は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、橋脚は18本で、擬宝珠10個がついており、佐賀藩藩祖・鍋島直茂が寄進したものです。桃山時代の特徴がよく表れた優美な橋です。
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与賀神社楼門
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所在地/与賀町 与賀神社
指定年月日/昭和25年8月29日
与賀神社は欽明天皇の代に作られたと社伝にあり、また「藤原家譜」によれば文明14年(1428年)大宰少弍政資が与賀城の鬼門の鎮守としたとあります。与賀神社楼門は、いくたびかの改修を経ており、建立年代は明確ではありませんが、構造形式からみると、室町時代前後の作と推定されます。近年では昭和25年11月、文化財保護委員会の指導のもと、解体修理を開始。昭和27年に修理は完了しました。全体の様式は和様ですが、ところどころに唐様の手法も使われており、佐賀地方では珍しい古建築です。
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佐賀城鯱の門および続櫓
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所在地/城内2丁目
指定年月日/昭和32年6月18日
佐賀城は、龍造寺氏の居城、村中城を慶長13年から16年(1608年から1611年)までの総普請により、拡張整備された鍋島氏の居城で、別名を沈み城または亀甲城ともいいます。藩政期、佐賀城は2回の大火にみまわれました。1回目は享保11年(1726年)の大火で、天守、本丸、二の丸をはじめとして、多くの建物が焼失しました。その後、天守、本丸は再建されず、二の丸や重臣屋敷で藩政が行われていましたが、天保6年(1835年)の二の丸火災を機に本丸が再建されることになりました。この鯱の門は本丸の門として天保9年(1838年)に完成したものです。明治になると本丸建物は藩庁(その後県庁)として使われますが、明治7年(1874年)の佐賀の役で、一部の建物が被災しました。その時の戦闘の激しさを物語るものとして、鯱の門の扉には弾痕が今も残っています。
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木造普賢延命(ふげんえんめい)菩薩騎象像
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所在地(所有者)/久保泉町大字上和泉(龍田寺)
指定年月日/昭和32年2月19日
龍田寺は元享年間(1321年から1324年)に開山した真言宗の寺院で、この普賢延命(ふげんえんめい)菩薩像を本尊としています。この像は4頭の白象上の蓮華座に座った二十手の普賢延命菩薩像で、上下二重の円光背を負っています。高さは71.7センチ、ヒノキによる寄せ木造りで、表面には漆箔がほどこされ、目には水晶が入り、頭上には金箔をはった銅製の冠をかぶっています。また、豊かに肉付いた顔、切れ長で半開きの目などその特徴は、鎌倉時代末期から南北朝時代に作られた仏像に共通するものです。この像には、これを裏付ける銘文があり、正中3年(1326)に、奈良の仏師康俊がつくったことが判っています。
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深堀家文書
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/昭和56年7月2日
深堀家は上総国の御家人でした。蒙古襲来以後、異国警固番役(いこくけいごばんやく)として、現在の長崎市深堀付近に土着、以来一族はこの地方に繁栄して近世初期に至りました。豊臣秀吉が九州入りすると、一時これに従いましたが、のちに鍋島氏に属してその重臣となりました。文書は大部分が鎌倉、南北朝のもので、内容は東国御家人の西国下向(さいごくげこう)の実態、その活動、定住後の軍事行動、恩賞配分などを詳細に知ることができるものです。
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舟形石棺
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所在地(所有者)/城内一丁目 佐賀県立博物館(佐賀市)
指定年月日/平成元年6月12日
佐賀市久保泉町に標高55.5メートルの熊本山があります。この山の頂上付近から、昭和36年のミカン園造成工事中に舟形石棺が発見されました。この石棺は推定径30メートル程の円墳に納められており、5世紀前半の所産と考えられます。石棺内部には2体分の人骨と、鉄剣、短甲、銅鏡、勾玉、管玉など、多数の副葬品が納められており、有力豪族の墓と考えられます。棺の石材は八女地方に産出する阿蘇熔結凝灰岩であることから、同地方との深い関わりが指摘されています。
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太刀(伝 康光)
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所在地(所有者)/与賀町(与賀神社)
指定年月日/昭和25年8月29日
この太刀は、長さ72.3センチ、反り2.4センチをはかります。銘は「康」以下が不明ですが、備前国(今の岡山県東部)長船康光の作とされています。この時期の備前刀を一般に「応永備前」とよび、盛光、康光、則光を三光とよんでいます。現在康光作の刀で「応永22年2月日」の紀年銘が国の重要文化財に指定されていますが、この太刀もこの頃つくられたものと思われる県内では数少ない名刀のひとつです。
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松浦山代家文書
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/昭和56年7月2日
この文書は鎌倉初期から南北朝末期に至るもので、松浦山代氏が松浦地方における有力な御家人であったことを裏付ける史料となっています。松浦山代家とは、西松浦郡山代(伊万里市北西部)を根拠とした松浦党の一族で、松浦山代氏系図によれば、松浦党の祖、源久の孫囲に始まる家です。総数66通が2巻の巻子装に仕立てられています。
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紙本墨書東遊歌神楽歌
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/昭和25年12月20日
東遊歌(あずまあそびうた)とは関東から東海道の一部を含めた地方の風俗歌です。「三代実録」には、貞観3年(861)3月14日条に倭舞と東舞の記述があり、大和地方の倭舞とならんで祭礼で一定の方式で奉納されるようになりました。この鍋島家本は東遊歌の後に神楽歌を採録しており、ともに平安時代後期の写本ですが、歌詞の数が多いことや奉納の順序をきちんと記してあることから、資料的価値が高いものです。
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色絵山水竹鳥文輪花大皿 鍋島(附)色絵山水竹鳥文輪花大皿 景徳鎮
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/平成25年6月19日
安政2年(1855)に作成された『御寄附物帳』に、鍋島勝茂から菩提寺の高伝寺へ寄進されたものとして記載されている「青絵御鉢 内壱ツ裏銘大明嘉靖年製 二」に該当する作品で、2枚一対で伝来したものです。1枚は中国景徳鎮の作品で、もう1枚は、景徳鎮の作品と同形同工の写しとしてつくられた有田焼です。景徳鎮の大皿とその写しの大皿が一対となって伝世していることは、有田の初期色絵が中国景徳鎮窯作品の直接的影響によって成立したことを示すものであり、肥前陶磁器を研究する上での貴重な資料といえます。また、鍋島勝茂の御道具であったことから、肥前磁器の開発における藩主の関与をうかがわせる点でも重要です。
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色絵椿文大皿 鍋島
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/平成30年10月31日
一尺を越える優美な大皿です。口縁の唐草模様や、見込みの椿文は、黄、黒、茶、赤、緑など多彩な色絵を用いて綿密に描かれています。椿文の輪郭を一方は染付、もう一方は黒の色絵で表しているのが特徴です。そのうち、前者の表現は鍋島焼に定着し、後者は民間の柿右衛門様式などに受け継がれました。1650年代に有田の岩谷川内の藩窯で製作されたと考えられ、初期の鍋島焼を考える上でも重要な作品です。
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国宝の紹介です。
催馬楽譜
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所在地(所有者)/松原二丁目(公益財団法人鍋島報效会)
指定年月日/昭和27年11月22日
催馬楽(さいばら)は、もともとは民間で広く歌われていた古代歌謡のひとつです。それがやがて貴族の間に取り入れられ、宮廷においても広く用いられるようになり平安時代に流行しました。
この作品は平安時代後期の古い写本で、催馬楽の古写本のうち現存最古のものです。律24首、呂36首と数多くの歌が集められています。温雅な万葉仮名の文字は宗尊親王筆(鎌倉幕府6代将軍)と伝えられてきましたが、平安時代後期の名筆の手によるものです。
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