長崎港警備図 〔佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵〕
幕末佐賀藩 -その時代背景-
1639年~
長崎警備と佐賀藩
江戸時代、幕府は、日本人の海外への渡航を禁じ、貿易もオランダ・中国の2力国に限って幕府の管理下で行う、いわゆる「鎖国」政策をとっていました。
外国船の寄港地である長崎は厳重な警戒のもとに置かれ、寛永18年(1641)以来佐賀藩は、福岡藩と1年交替で湾口の警備にあたりました。
長崎警備は、当番年には多くの藩兵を長崎に駐留させなければならないなどの経済的負担を伴いましたが、長崎を通じて海外の情報をいち早く入手できるというメリットももたらしたのです。このことが、幕末の佐賀藩が他の藩にさきがけて近代化をなしとげていく大きな前提となっていきます。
1808年
フェートン号事件
幕府の特命による栄誉ある職とされた長崎警備も、江戸時代後期になるとすっかり形骸化してしまい、駐留する藩兵の数も減って警備の実効性は失われていました。そこに起こったのがフェートン号事件です。
文化5年(1808)、オランダと敵対関係にあったイギリスの軍船フェートン号が長崎港に不法侵入し、オランダ商館員を拉致して薪水・食料を要求。拒否すれば港内の船舶を焼き払うと脅され、長崎奉行は要求を受け入れます。フェートン号は人質を釈放して出帆しましたが、奉行は責任をとって切腹、警備の当番だった佐賀藩も藩主鍋島斉直が100日間の逼塞を命じられました。
この事件は、東アジアに市場を求める欧米諸国が、急速に日本に接近してくる緊迫した対外情勢を象徴的に示すものです。しかし事件後は一時的に警備が強化されたものの、佐賀藩の本格的な軍備増強は19世紀半ば、天保末年を待たなければなりませんでした。
1840年~1842年
アヘン戦争
天保11年(1840)、隣国である清国(現在の中国)とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発。イギリスは圧倒的な軍事力で勝利し、香港を植民地としました。
この事実は早々に日本に伝えられ、当時大国と言われていた清国の敗北は、アジアへの侵出を進める欧米列強の脅威が、日本にまで及ぶ事を肌で感じさせ、その危機感を募らせる事になりました。
当時の佐賀藩10代藩主である鍋島直正もこの事実に衝撃を受け、長崎の海防強化、そして近代科学技術の導入への大きなきっかけとなったのです。
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