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活躍した人びと

更新:2016年05月10日

幕末佐賀藩人物列伝

日本の近代化を成し遂げたフロンティアたち

鍋島直正(閑叟)〔文化11年(1814)~明治4年(1871)〕

鍋島直正(閑叟)〔文化11年(1814)~明治4年(1871)〕

名君と呼ばれた佐賀藩10代藩主。

天保元年(1830)に17歳で家督を相続し、財政改革に取り組む一方、藩校弘道館を拡張して人材育成にも力を注ぎ、幕末・明治に活躍する優秀な人材を輩出しました。長崎警備強化のため台場の増築と備砲を決意し、長崎での情報や輸入の蘭書を基に試行錯誤を繰り返しながらも、築地反射炉・精煉方・多布施反射炉・三重津海軍所など、全国に先駆けての一大事業を興し、わが国近代化産業の発展の基礎を築きました。

※掲載写真は公益財団法人鍋島報效会蔵

佐野常民〔文政5年(1822)~明治35年(1902)〕

佐野常民〔文政5年(1822)~明治35年(1902)〕

佐賀藩士。

嘉永4年(1851)に京都より引き連れた中村奇輔(蘭学・化学)、石黒直寛(貫二)(蘭学・理化学)、田中久重・儀右衛門父子(機械・発明)を鍋島直正に推挙して精煉方雇とし、自らも主任となって理化学研究や産業開発にあたりました。

長崎海軍伝習に毎回参加し、技術や知識を習得し、三重津海軍所創設にも関わる一方、慶応3年(1867)にパリ万博へ参加、軍艦建造依頼などをこなしました。

明治3年(1870)に工部省出仕し、精煉方の機器類は新政府に移しました。

後に日本赤十字社を創設しました。

※掲載写真は佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

石黒直寛(貫二)〔文政5年(1822)~明治19年(1886)〕

石黒直寛(貫二)〔文政5年(1822)~明治19年(1886)〕

丹後田辺藩出身。

京都の広瀬元恭の時習堂で理化学を学び、佐野常民の推挙で佐賀藩精煉方御雇となり研究に従事しました。語学に堪能で洋書の翻訳等に活躍、また佐野とともに長崎海軍伝習に毎回参加して知識と技術の習得に努め、精煉方での理化学研究に大いに寄与しました。

文久元年(1861)遣欧使節に随行して渡仏しています。

明治4年(1871)工部省に出仕しました。

※掲載写真は佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

田中久重〔寛政11年(1799)~明治14年(1881)〕

田中久重〔寛政11年(1799)~明治14年(1881)〕

筑後の久留米でべっこう細工師の長男として生まれ、幼い時分よりからくり仕掛けに興味を抱き、近所からは「からくり儀右衛門」と呼ばれていました。

嘉永6年(1853)、佐野常民の薦めにより、石黒直寛、中村奇輔とともに父子ともども佐賀藩精煉方の重要メンバーとして迎えられ、精煉方で試験・研究に従事し、大砲の鋳造、蒸気汽缶の製造、蒸気車・蒸気船の雛形を製作、純国産初の蒸気船「凌風丸」の建造にあたりました。

後に東京で開いた「田中製作所」は、現「東芝」の前身です。

※掲載写真は「田中久重夫妻写真(久留米市教育委員会蔵)」

伊東玄朴〔寛政12年(1800)~明治4年(1871)〕

伊東玄朴〔寛政12年(1800)~明治4年(1871)〕

神埼郡仁比山村出身。

佐賀城下の蘭方医、島本良順に入門し、後に長崎の鳴滝塾でシーボルトに学びました。天保2年(1831)に佐賀藩の医官となり、一方で江戸に蘭学塾象先堂を開いて多くの門人を輩出しました。天保14年(1843)には鍋島直正の御側医になり、このころから佐賀藩は西洋医学の導入に傾いていきます。安政5年(1858)には江戸にてお玉が池種痘所を開設しました。

近代医学の祖であり、蘭方医としては初めて幕府奥医師に挙用される等、官医界における蘭方の地位を確立しました。

※掲載写真は佐賀県立佐賀城本丸歴史館蔵

 

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