佐賀藩の取り組み

更新:2016年05月10日

佐賀城本丸

佐賀城本丸

カノン砲雛型 〔公益財団法人 鍋島報效会蔵〕

カノン砲雛型 〔公益財団法人 鍋島報效会蔵〕

幕末佐賀藩の先進的取り組みの数々

佐賀藩の天保の改革

鍋島直正の登場

文化11年(1814)、江戸の鍋島藩邸に生まれた直正は、元服の翌年である天保元年(1830)に佐賀藩10代藩主になりました。

当時の佐賀藩財政は、長崎警備強化のための出費や江戸在府の費用などで破綻寸前にあり、財政をたてなおすことは緊急の課題でした。襲封当初の直正の財政再建は質素倹約の徹底という消極的なものでしたが、天保6年(1835)の佐賀城二の丸の火災を契機として実権が先代の斉直から直正に移り、人事刷新が行われて藩政改革は本格化しました。幕末維新期には薩長土肥と呼ばれる雄藩として、佐賀を築き上げた名君の誕生でした。

天保元年(1830)に藩主となった直正は江戸から佐賀に向かいますが、途中品川で行列は止まってしまい動かなくなりました。江戸屋敷に掛売りで米・味噌や薪炭を納めていた商人たちが請求に押し掛け、返済を求めたためでした。日用品の支払いにも事欠くほど貧窮した藩の財政を、直正が身をもって知った逸話です。

佐賀藩の藩政改革

天保6年(1835)の佐賀城二の丸の火災を機に、藩政の実権は直正に移り、本格的な藩政改革が押し進められましたが、改革の方向性を定めたのは、儒学者の古賀穀堂です。直正の教育係を勤め、思想形成に大きな影響を与えた人物です。

改革ではまず人事を刷新、改革派の有能な側近をそろえ、財政、行政、教育をはじめとする改革を順次進めて、藩政の立て直しを図りました。財政改革では巨額の負債を大胆に削減するために、元金の一部を数十ヵ年の長期分割で返済し、後は献金にするという方法をとりました。

また、江戸藩邸の経費の大幅削減や、参勤交代の規模の縮小と経費の削減などを強行していきました。一方で白蝋や焼き物、お茶や石炭産業など、殖産興業を促進して増収を図りました。

行政改革では、藩の役人の1/3にあたる、およそ420人の役職を解き、その一方で身分に関わりなく、有能な人材を採用していきました。

  • 済急封事(さいきゅうふうじ)
    古賀穀堂が直正の治政の開始にあたり上程した意見書。人材登用、倹約、文武の奨励、藩財政再建のための国産の奨励などを進言し、藩政改革の思想的支柱となりました。
  • 古賀穀堂
    佐賀藩の学教を担った人物であり、直正の教育係として、その思想形成に大きな影響を与えました。

佐賀城本丸の再建

佐賀城二の丸の消失の後、実権を握った直正は、周囲の反対を押し切り、当時荒廃していた佐賀城本丸御殿を新築・再建。本丸の中に政務の中心となる請役所を設け、改革を効率よく推進できる体制に改めました。また話し合いによる合議制で藩政を行うシステムも確立しています。

幕末の佐賀藩の人材育成

弘道館と教育改革

直正は藩校である弘道館を移転、拡張し、併せて教育改革も行いました。

藩士の子弟全員に義務教育として教育を充実、一定の成績が修められないものには、罰則も設けました。

また、当時当たり前の慣例であった世襲制の役職を廃止、藩校で育った有能な人材を抜擢していきました。後の明治維新で活躍する大隈重信や江藤新平ら、多くの逸材が弘道館の出身です。

一方、医療学校である蘭学寮や医学館を設けて、蘭学や医学を積極的に学ばせ、多くの人材を輩出。医者になるための免許制度を日本で初めて施行しました。

  • 大隈重信(1838-1922)
    第8代、第17代内閣総理大臣。日本で初の政党内閣を組織しました。早稲田大学の創設者。
  • 江藤新平(1834-1874)
    近代司法制度の基礎をつくった初代司法卿。司法権の独立や人権擁護の法制化などに情熱をそそぎました。

佐賀藩の蘭学

佐賀藩での蘭学の導入は医学から始まりました。そのさきがけをなしたのは、蘭方医島本良順とその弟子伊東玄朴です。

伊東玄朴は神埼郡仁比山村で生まれ、22歳のとき佐賀城下の蘭方医、島本良順に入門し、後に長崎の鳴滝塾でシーボルトに学びました。天保2年(1831)士分に昇格して佐賀藩の医官となり、一方で江戸に蘭学塾象先堂を開き多くの門人を輩出しました。そのなかには反射炉築造の中心メンバーだった杉谷雍助、精煉方の主任となった佐野常民らもいました。

玄朴は天保14年(1843)には直正の御側医になり、このころから佐賀藩では西洋医学の導入に傾いていきました。また大石良英や大庭雪斎、金武良哲、楢林宗建らも藩医として活躍しました。

佐賀藩領内では弘化3年(1846)に天然痘が大流行したため、藩主鍋島直正は領内で種痘を実施することにしました。嘉永2年(1849)7月、藩医の楢林宗建が輸入した痘苗を我が子に接種したところ成功したので、同年8月城内において当時4歳だった直正の子淳一郎(直大)や庶弟皆次郎にも接種を行いました。漢方から蘭方医学への転換を示す象徴的な出来事でした。

  • 伊東玄朴(1800-1871)
    神埼出身。佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政5年(1858)には江戸お玉が池種痘所を開設。近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立しました

幕末佐賀藩における軍備の近代化

独自の海防強化

天保11年(1840)に起こったアヘン戦争で、イギリス軍が清国を敗ると、長崎警備の任にあった佐賀藩では、急速に欧米列強に対する危機感が高まり、長崎港の警備体制の強化を推し進める事になります。

長崎港で、たびたび外国の軍船を視察していた直正は、西洋の軍事技術の導入の必要性を実感し、幕府に長崎港の砲台の増築を進言。しかし当時、慢性的な財政難もあり、幕府はこれを受け入れなかったため、佐賀藩は独自に海防力の強化に取組み始めます。

その一環として、嘉永4〜5年(1851-1852)、長崎港の神ノ島と、その隣の四郎島の間、およそ200mを埋め立てて陸続きにし、台場を建設しました。

そしてこの台場に鉄の大砲を備えるため、佐賀藩は、まだ日本では実用化されていなかった、反射炉の建設に着手していました。

弘化元年(1844)9月21日、水兵が奏でる軍楽に迎えられて使節船パレンバン号に乗船した鍋島直正は、艦内をくまなく巡視し、艦砲の操作や兵士たちの銃陣の訓練を見学しました。

洋式砲術の導入

当時海外では鋳鉄砲が一般化していましたが、その製造には大量の鉄を溶解する反射炉が必要でした。日本では反射炉はまだ研究段階で、実用化しておらず、佐賀藩がその先鞭をつけることとなりました。

佐賀藩では、洋式法(青銅砲)製造の研究をしていた火術方から新たに大銃製造方を独立させ、嘉永3年(1850)7月、城下の築地において反射炉の建造に着手し、同5年4月までに4炉(2基)を完成しました。

反射炉を用いた鋳砲は、はじめは鉄の溶解がうまくいかず失敗の連続でしたが、学者たちの新しい知識と刀工や鋳物師らの伝統技術を結集して改良を加えた結果、嘉永5年(1852)5月には満足のいく良好な融鉄が得られるようになり、幕府や他の藩からも鋳鉄大砲の注文を受ける事となりました。

佐賀藩が幕府から鋳造を請け負った大砲は、でき上がると順次品川砲台に据え付けられました。安政3年(1856)2月、直正は実施検査のため品川砲台を訪れています。

そして明治維新へ

こうして直正が行ったさまざまな改革は、科学技術の進歩と多くの逸材を排出し、後の明治維新に於いても重要な役割を果たしていく事となります。

佐賀の地が、新しい日本の国づくりへ向けて、その原動力となった時代です。まさしく「日本の近代化は、佐賀から始まった」といえるでしょう。

 

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