多布施反射炉跡(たふせはんしゃろあと)

更新:2014年04月 1日

「多布施公儀石火矢鋳立所図」公益財団法人鍋島報效会蔵 大砲の尾部の鋳型と考えられており、側面にはタガの跡が残っている 跡地であることを伝える石碑

「多布施公儀石火矢鋳立

所図」公益財団法人鍋島

報效会蔵

出土した鋳型片 跡地であることを伝える石碑

幕末日本の最新悦ハイテク工場

「多布施反射炉(多布施公儀石火矢鋳立所)」とは

「石火矢(いしびや)」とは大砲のこと。

嘉永6(1853)年、浦賀への黒船来航に危機感を持った幕府は、急遽江戸湾の砲台に配置するために鉄製大砲鋳造を佐賀藩に依頼しました。

この依頼に応えるべく新たに建造されたのが、多布施反射炉です。ここで鋳造された大砲は幕府が品川に築いた砲台に備えられ、その遺構は今も「お台場」に残っています。

幕府が大砲鋳造を依頼したのは、佐賀藩の技術が評価されていたことによるものであり、ここは当時の日本における最新悦の工業設備を誇っていました。

歴史に果たした役割

ペリーの黒船来航により、日本は急速に開国への道を歩いていくことになります。

築地・多布施の反射炉で培われた近代兵器に対する知識は、最終的に旧幕府体制を討ち滅ぼす事になります。特に強力な威力を持つアームストロング砲は「佐賀の大砲」として恐れられました。

関連年表

嘉永 6年 1853年 6月 ペリー浦賀に来航

嘉永 6年 1853年 8月 幕府、佐賀藩に大砲50門を注文

嘉永 6年 1853年 9月 多布施に公儀石火矢鋳立所を置く

安政 1年 1854年 1月 幕府の川路聖謨ら、佐賀の反射炉を見学

慶応 4年 1868年 2月 佐賀藩兵、東征軍北陸道先鋒として従軍

慶応 4年 1868年 5月 上野戦争

現在の姿

現在、その跡地は住宅などの建物が立ち並び、全くと言っていい程その遺構を残していません。

反射炉敷地推定地南端に所在する赤石組みの水路と往時から変わらない清流の多布施川だけが、当時の姿を偲ばせてくれます。

平成21年度には、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補入りを目指して、発掘調査を行いました。

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