調査で確認した製鉄関係 の遺構 |
耐火煉瓦の破片 |
日本初の実用反射炉
「築地反射炉」とは
築地反射炉は佐賀藩10代藩主、鍋島直正がつくらせた日本初の実用反射炉です。
反射炉とは、燃料の熱を壁や天井の面で反射させて炉内の温度を上げ、鉄や銅などの金属を溶かす溶解炉であり、その完成により、日本でも鉄製大砲の鋳造が可能となりました。
はじめは鉄の溶解がうまくいかず失敗続きでしたが、手引書となったオランダの「ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を翻訳した伊東玄朴らをはじめ、直正が育てた蘭学者たちの新しい知識、刀工や鋳物師らの伝統技術を結集した結果、嘉永5年(1852)5月には良好な溶鉄が得られるようになりました。
日本で最初に反射炉で鉄製大砲を鋳造した意義は大きく、日本の近代産業化へのシンボルとも呼べるものです。
歴史に果たした役割
この頃、圧倒的な軍事力で東アジアに進出してきた欧米諸国。反射炉建設の背景には、アヘン戦争で大敗した清国の二の舞にならないよう、国防としての長崎警備強化のための台場増築と、そこに据え付ける大量の洋式砲製造の必要性がありました。
その完成以降、海外からの脅威に備え、韮山、薩摩、萩など、日本各地で反射炉が建造され、佐賀藩はその援助、技術交流などを行いました。この反射炉建造を先駆けに、やがて日本は欧米諸国と肩を並べる程の軍事力を得るようになるのです。
関連年表
天保 1年 1830年 2月 鍋島直正、第10代藩主となる
天保11年 1840年 11月 アヘン戦争が起こり、長崎警備を強化
弘化 1年 1844年 9月 鍋島直正、オランダの軍艦パレンバン号を見学、西洋軍事技術の必要性を再認識
嘉永 3年 1850年 7月 築地反射炉建設に着工
嘉永 4年 1851年 4月 長崎の神ノ島・四郎島間の埋め立てに着工
嘉永 5年 1852年 4月 4炉の反射炉が完成
嘉永 6年 1853年 6月 韮山の八田兵助、反射炉見学のため来藩
現在の姿
この反射炉の正確な位置は、長年、「日新小学校付近」といわれていただけで、正確な地点まではわかっていません。
2008年12月、佐賀大学地域学歴史文化研究センターにより地中レーダー探査が行われました。
平成21年度からは、世界遺産登録を目指す「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産候補入りを目指して、発掘調査を行っています。
※「九州・山口の近代化産業遺産群」は、平成25年9月に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に名称変更が行われました。
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