佐賀城西堀の赤石護岸の修復を行いました!
●佐賀城の堀護岸
「四十間堀」と称される佐賀城の堀は、慶長13年(1608)から掘削が始まりました。
築城当初の堀岸は、木の板や杭で護岸されていましたが、年月が経ち、次第に護岸の板や杭が朽ち、土手も崩落し始めたことから、享保19年(1734)に5代藩主の鍋島宗茂が幕府に堀護岸改修の許可願いを出し、6代藩主・鍋島宗教の代に石垣による堀護岸への改修に取り掛かっています。
ただ、この時の改修工事は財政難等の理由から未完成のままとなり、それから数十年後の寛政年間(1789~1800)を中心とした時期に、8代藩主・鍋島治茂が本格的な堀護岸改修に着手し、現在も堀岸に見られるような赤石の護岸が造られました。
●赤石護岸の状況
赤石護岸の構造は、最下部に石の重みによる不等沈下を防ぐため梯子状に松の丸太材を組んだ胴木(梯子状胴木)を敷き並べ、その上に方形や長方形に加工した赤石を4~6段積み上げています。また、その前面には石垣が堀側へ滑り出すことを防止するため、一定の間隔で杭が打ち込まれています。
このような赤石護岸は、場所によって最下段に積まれた石と上部に積まれた石との間に石同士の組み方や表面処理に明確な違いが観察されます。工法的なもの、積まれた時期の違い等いくつかの理由が考えられますが、まだはっきりとした理由は分かっていません。
【佐賀城東堀の赤石護岸】
【佐賀城西堀の赤石護岸】
※場所によって、打ち込まれた杭の間隔や石材の加工方法に違いがあることが分かります。
●西堀西岸の護岸修復
赤石護岸が崩落してしまった部分とその周りで崩落寸前となっている部分約66mの解体・修復を実施しました。
解体に際しては、石垣の構造や崩落した原因を確かめるために石垣背面の発掘調査や作業の各段階で石垣の測量・写真撮影といった記録作業を実施しました。
その結果、修復箇所の護岸は石の積み方から幕末までに2回以上の補修が行われたこと、通常の石垣に見られるような栗石の裏込めはなく基本的に粘土系の土で埋め戻されていること、石垣背面の一部に人頭大の石で積み石を押さえる「押さえ石」が施されていることが分かりました。
また、今回の調査で、石垣崩落を招いた最大の要因は、歩道に植えられた街路樹の根であることを確認しています。ただ、調査が進展していく中で、根石の下に据えられた梯子状胴木の堀側の部材が腐朽したことで根石が堀側に傾くいわゆる逆石状態になっていることが判明し、このことも崩落の大きな要因となったようです。それ以外にも、電柱や配管埋設工事、隣接する市道を通行する車両の振動等もその要因となった可能性が考えられます。
修復作業は、崩落寸前となっている部分も含めた範囲の石垣を一旦解体して、角度等を調整しながら同じ場所に積み直しています。ヒビ割れ等で再利用できないものについては、できるだけ同じ多久市両子山産の赤石を同形に加工して使用することを心がけましたが、現在赤石の採掘自体が行われていないことから、どうしても不足する分については色調が類似する熊本県宇土市産の馬門石を使用し補填しています。
また、石垣が完全に崩落し以前の状況が分からなくなってしまった部分については、周囲の石垣の積み方を参考にしながら、違和感がないように赤石と馬門石の新材を加工して復元しています。最下部の梯子状胴木についても、腐朽が確認された部分には新材で補強を行いました。
近くにお越しの際は、是非ご覧になってください。
【崩落した赤石護岸】
【石垣背面土層】
※栗石の裏込めはなく、概ね粘土系の土で埋め戻されています。
【石垣背面「押さえ石」検出状況】
【石垣根石検出状況】
※根石が堀側に傾いていることが分かります。
【梯子状胴木検出状況】
※堀側の部材が腐朽し、痩せ細っていました。
【石垣修復作業】
【修復された赤石護岸】
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