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判事 山口良忠(2015年4月7日)

更新:2017年03月 9日

 先ごろ、土地改良区の総代会と農業委員会の総会で挨拶する機会を得た。

 農業関係の会議なので当然のことだが、最近の農業がおかれている厳しい環境に触れるとともに、昔の食糧事情と農作業風景を懐かしく思い出しながら農業の持つ多面的な機能の大切さを訴えた。

 農業に関して、私たちは、「食糧生産」という役割だけでなく、もっと広く大きな、多面的機能を考慮に入れるべきである。地球環境保全や農家の皆さんが担ってこられた地域コミュニティの役割など、農業の果たしてきた功績は大きい。

 ところが、TPPに対する政府の動きなどを見ると、生産性やコストが優先し、農業の多面的機能への評価が低いように思われてならない。

 

 今年は戦後70年の節目に当たるが、終戦直後の苦しい食糧難を経験した私にとっては、食糧事情は大きな関心事である。

 昭和35年に発行された「佐賀新聞75年史」によると、終戦の昭和20年は、米が未曾有の凶作だったという。戦争末期における肥料の欠乏、労力不足のために管理が行き届かなかったことに加えて、稲の開花時の天候不順が重なったため、ひどい凶作で「供出米」も思うように集まらなかったという。加えて、戦地からの復員者や外地からの引揚者で米需要は増大し、米不足はたいへんな騒ぎになったようである。

 終戦時、昭和17年生まれの私は3歳になったばかりで、この年の食糧難は覚えていない。しかし、その2~3年後だろうか、慢性的な米不足はまだ続いていたようだ。50アールほど田を耕作していた我が家だが、「供出米」のノルマは厳しかった。当時10人家族だった我が家でもおかゆの夕食や、かぼちゃや芋などの蔬菜が入ったご飯はしっかりと記憶している。秋になると、確か「ぼーぶら」と言っていたと思うが、長いかぼちゃがごろごろと農家の縁側には並んでいた。腹を満たすための大切な食材でもあった。ヤミ米が横行し、近くで警察の手入れがあったことなどを話す大人の会話から、子ども心にも緊張し、米の貴重さを感じていたものだ。当時は、一粒の米も粗末にする者はいなかったはずだ。

 

 このような深刻な食糧不足を背景として、佐賀県白石町出身の裁判官・山口良忠判事の悲話が生まれるのである。

 山口判事のことを改めてインターネットで調べてみた。山口判事は、東京の裁判所の判事で、当時は主に闇米に係わり、食糧管理法違反で検挙された被告人の裁判を担当していた。

 配給米だけでは生きていけない時代に、取り締まる側に立つ者として、自らの姿勢を律して、自らも闇米に手を染めることを許さなかった山口判事は、栄養失調から肺の病を誘発し、昭和22年に33歳で亡くなった。

 山口判事は、配給の米のほとんどを二人の子供に与え、自分は妻とともにほとんど汁だけの粥などをすすって生活したそうだ。親せきや友人が見かねて食糧などを送ったが、山口判事はそれも拒否したという。

 米余り時代の今日を、もし山口判事が見たならば、判事は何と言われるだろうか。

 

 農業は気候など地球環境の変動を受けやすい。

 私たちは、国民が栄養失調になるぐらいの量しか米を生産できなかった時代が過去にあったことを忘れてはならない。

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