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ある日の夕食(2018年12月4日)

更新:2019年12月 9日

 11月末、我が家の夕食で今秋初めての「大根煮しめ」が食卓に上った。

 我が家では「大根にじめ」というが、大根と人参を削いだものに「南関揚げ」と赤貝のむき身を一緒に煮込んだものだ。1日置くと味が染み、うまさが一段と増す。

 私にとっては寒い季節の晩酌の最高の「肴」である。もちろんそれを知っている妻が用意したものだが、その日は、久しぶりに妻と二人だけのゆっくりした食事となった。

 そのうち、話は子供のころの「想い出」に移って行った。

 私は、子どもの頃、食べるものがなかったことを強く覚えている。いわゆる戦後の食糧難時代である。好き嫌いなど言っていられない時代であった。昭和20年代半ばまでは特にひどかったように思う。食糧米が不足して闇米を求めざるを得ない人であふれていた時代である。闇米を求めたために警察沙汰になることが珍しくなかった時代である。

 食糧不足は主食の米だけでなく、おかずの材料も十分でなく、牛肉や豚肉鶏肉などはたまにしか食べられず、その代用品的な存在だった鯨の肉料理が実に美味しかったのを覚えている。

 その頃の今の時期、我が家の夕食は「大根にじめ」「白菜にじめ」が定番だった。私はこの「大根煮じめ」が好きにはなれなかった。それが週に2~3度も出されれば飽きも加わり、「また、大根にじめか」と食欲を大きく削がれるのであった。

 しかし、そんなおかずでも、それを食べないことには他にご飯のおかずになるものはない。

 今、考えれば食材も少ない中で、母親としては、10人家族の我が家の食材を調達するのが手一杯で、おまけに調味料なども少なく、おいしさなどにまで気を配る余裕はなかっただろう。

 

 このあと、妻との会話は食べ物から戦争の話に発展した。

 悲惨な食糧事情を戦後に残した太平洋戦争、その開戦日である12月8日が間もなくやってくる。

 父親が出征し、戦死されたために父親の顔を覚えていない遺児が私と同じぐらいの年代には多い。私のいとこにもいる。そのいとこは76歳である。

 つい先日、佐賀新聞のコラム欄で紹介されていた方は、父親の戦死だけでなく母親とも生き別れになってしまったので、お母さんの顔も「おぼろげ」だそうである。

 このように親の顔も知らないまま、70年以上も生き抜いてこられた遺児の皆様への慰めの言葉は、私には簡単には見つからない。

 以前、戦争遺児である高校時代の同窓生が綴った父親に対する思いを載せた文集を読んだことがある。

 その同窓生は女性で、お母さんのおなかにいるときにお父さんが出征され、お父さんはわが子の顔を戦地に送られてきた写真で見ただけで、一度もわが子を抱くことなくビルマで戦死されたとのことだった。

 遺児となった彼女は小学校時代に、当時よく歌われていた童謡の「里の秋」が、途中涙で歌えなかったという。

 「しずかな、しずかな、里の秋」で始まるあの歌である。小さい頃、私もよく歌った歌で、今の季節にぴったりだ。

 この歌の2番は

 「あかるい、あかるい 星の空、鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は

 ああ、父さんの、あのえがお、栗の実、食べては思い出す」という歌詞になるが、ここの「ああ、父さんの、あのえがお」のところで、彼女は涙があふれて歌えなかったというのだ。

 彼女には思い出す父さんの笑顔などなかったからだというのである。もっともだと私は思った。

 この歌には3番があり、3番の歌詞には、戦後、戦地から引き揚げ船で帰還する父の無事を祈る歌詞もあるので、涙が出るのは尚更のことであったろう。

 「里の秋」は戦地に赴いた父の無事の帰還を祈る歌であったことを私はつい最近知った。

 

 同窓生の思い出が載った文集には、幼かった彼女が、いとこのお父さんが無事帰還してみんなで喜んでいるさまを見て「うちの父さんはなぜ帰らないの」と泣きながら母に迫って、母を困らせたことがあったことも記されていた。

 

 戦後の物資不足はこりごりだ。

 戦争遺児を再び出すような世にしてはいけない。

 

 そんなことを語りながらの妻と二人の夕食でした。

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